「罰の当たる人当たらない人」
神があなたを愛しているかどうかを知る手がかりを教えます。
端的に云えば、自分が何か人間関係やあらゆる出来事の中で、心の中で思い測った行動の結果がどれも上手くいかず失敗し痛い目にあった時、もしくは一時は上手くいって成功しても後で酷い目にあって痛い思いをした時に、あなたがどのように感じたかで判断することが出来ます。
例えば、「ああ、これはきっと自業自得なんだ。自分の思い測ったことが神様の目に悪かったから、神様が自分に罰を当てたんだな。これは反省して悔い改めよということなんだな。」と思える人は神に愛されている人です。
その反対に、「くそ!今回は失敗して痛い目に遭ったが、次には上手くやってやるぞ。」と全く反省をしない人は神に愛されているかどうか怪しい人です。
しかし失敗を何度繰り返しても、反省をするどころか更に悪いことを計画して行動するような人は、神の愛はその人からどんどん遠ざかっているといえます。
そういう人は要注意です。
そして、神の愛が完全にその人から遠ざかって忘れ去られた人を教えます。
その人に神は罰をもう与えません。それゆえ、その人はどんなに悪計を心に思い描き、実行に移しても失敗しないようになっていきます。
言うまでもなく、悪魔に愛され、悪魔の霊がその人を支援しているからです。
またそうした人は悔い改める必要など無くなっているため、増長していきます。
よく、「自分は神に愛されているんだ。だから成功したんだ!」と言う人がその人です。
以上は非常に分かり易い指標ですが、これは真実この通りなのです。
自分が普段の出来事で思い測る内容や、それらを実行に移した時に、それが自己中心的で自分の利益のみを追求するものであったり、自分の利益のために他者を犠牲にするような場合は、たとえその時は上手く成功しても、時が経ってその時が原因で反対に自分が不利益を被ることになったり、他者によって自分が似たような目に遭わされたりすることがあります。
こういう出来事は誰でも一度は経験があり、なぜこんなことが起きるんだろうと時々不思議に思う事があるのではないでしょうか。それは、実は神があなたに気づかせるために起こされている出来事であり、あなたへの「愛ある懲らしめ」であるのです。
そしてその懲らしめを受けた時に「これは、過去の行いに対する自業自得なんだ。」と気づく人は、ちゃんとその人に正しい「良心」というものが備わっている証拠でもあるのです。神はあなたの心をよくご存じなので、あなたが神の目において罪を犯した時に、あなたに悔い改めるように「良心」に気づかせるチャンスを与えてくれているのです。聖書の『ヘブライ人への手紙』と『啓示』には次のように書かれています。
・ヘブライ人への手紙12:4~8
「そうした罪と戦う点で、あなた方は未だかつて血に至るまで抵抗したことはありません。むしろ、あなた方を子と呼びかけているこの勧めをすっかり忘れてしまっています。「我が子よヤハウェからの懲らしめを軽く見てはならず、また神に正される時、弱り果ててもならない。ヤハウェは自分の愛する子を懲らしめられるからである。事実、自分が我が子として迎える者をすべて鞭打たれるのである。
あなた方が忍耐しているのは鍛錬のためです。神は子に対するようにあなた方を扱っておられるのです。父親が懲らしめを与えない子は一体どんな子でしょうか。
すべての子があずかる懲らしめを受けていないとすれば、あなた方は実際には私生児であって、子ではないのです。」
・啓示3:19
「すべてわたしが愛情を抱く者をわたしは戒め懲らしめる。それゆえ熱心になり、そして悔い改めなさい。」
普通の人は、全部の出来事に対してそうでなくても、少なくとも何回かに1回は自分の思い測った出来事や結果に対して反省して悔い改め、二度と同じ過ちを繰り返さないよう努力すると思います。しかし、中にはそうしない人もいます。
そうしない人は、自己中心的で、神から与えられた悔い改めのチャンスをことごとくはねのけ、兎に角自分の思い通りに生き抜いて行こうとするタイプです。
ある意味今の時代は、こうした我が道を行くタイプの人が増えてきています。
そして上記に書いたように、こういうタイプの人は悪魔側の霊達が近寄って支援をし始めるので結果、こういう人はだんたん自分の思い測った通りの楽な人生を手に入れるようになっていきます。
自分の欲求のまま、何をやってもことが上手く運んでいくので、人生が楽しくてたまりません。こういう人にとってはこの世は楽園になっています。
ただ、その人の心には既に正しい「良心」は失われています。悪魔に良心を売り渡したからです。そのため、自分の欲求を満たすためなら他人がどんなに迷惑や被害にあっても気にしません。むしろ、相手が傷つくことを喜んだりするようになるのです。
既にその人の心の中では「悪い事は良いこと」になっているからです。
ここまでで、一つちょっと判別しにくい注意する例があるので伝えておきます。
それは、傍目には善人で誰からも愛されている、もしくは尊敬されている成功者の場合です。誰が見ても善人だから、尊敬に値する人だから、神が愛されて成功させたんだと思うのは間違いなのです。
どんなに傍目に素晴らしく見えていても神が愛しているとは限らないのです。
それは、神が禁じており、忌み嫌っていることを信奉している場合があるからです。
そしてそういう人とは、たいがい例外なく、スピリチュアル(占術や魔術・降霊術)に系統していたり、偶像崇拝をしていたり、科学系、またはUFO等を信じたり、広めたりしています。また、この世の流行に敏感で、この世の祭りごとや世の倣いについて行こうとします。
このタイプの人達は、この世的には優雅で美しく世の憧れの模範のように映っています。(世のエンターテインメントの世界のように)しかし、神の目には反対に映っているのです。
世を愛する者、世の習慣を愛する者を神はとても嫌っているのです。
そして、そのことを知っているからこそ悪魔は、善良に見えるこの世の模範的な成功者、または羨望に値する人々を宣伝し、民衆がマネするように仕向けているということです。
ということで、
あなたが、神に愛されているのか否かを判断する手がかりをお話ししましたが、あなたが神に愛されたいのか、この世の神、悪魔に愛されたいのかはもちろん自由に選んで良いのです。
但し、この選択は今世限りの、命があるうちの選択であり、来世の選択権などないということを知ってほしいと思います。
聖書は「輪廻転生」など認めておらず、その教えは悪魔の教えであることは明白だからです。スピ系や仏教系は「輪廻転生」を教えています。というか、世はほとんどこちらの教えが多いのです。
真実は、私達の命の選択は今世限り、1回のみの選択しかないということです。
来世の命など悪魔の嘘のまやかしなのです。
神は私達に様々な気づきのチャンスを与えてくれています。
罰が当たっている内はそのチャンスに恵まれているのだから、是非感謝し、神の愛に気づいて自分の『良心」を失わないようにしたいものです。