9.
生まれながら目の見えない人の癒し
そして通りがかりに、生まれながら盲目の人を見た。
彼にその弟子達が尋ねた。
「ラビ、生まれながらには、※①誰が罪を犯したのですか。この人ですか。それともその両親ですか。」
と言って。イエスが答えた。
「⁑この人が罪を犯したのでも、その両親でもなく、彼において神の業が顕れるためである。わたしたちは、昼である間に、わたしを派遣した方の業をなさなければならない。誰も業をなすことのできない夜が来ようとしている。世にある限り、わたしは世の光である。」
これを言ってから、地面に唾きをし、唾で泥を作り、彼に、両目の上にその泥を塗り、そして彼に言った。
「往きなさい。シロアム(遣わされた者の意味)の池で洗いなさい。」
そこで彼は立ち去り、洗い、見えるようになって帰って来た。
そこで隣人達、また以前、彼が物乞いであったことを見ていた人々は言い始めた。
「この男は座って物乞いをしていた人ではないのか。」
ある人々は
「この人だ。」
と言い、他の人々は
「違う。しかし、似ている。」
と言っていた。この人は
「私だ。」
と言った。
そこで彼に言い始めた。
「では、お前の目はどのようにして開かれたのか。」
この人が答えた。
「イエスと呼ばれる人が泥を作り、私の両目に塗って『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。そこで私が行って洗うと視力が得られたのです。」
彼に言った。
「その人は何処にいるのか。」
彼は言う、
「わかりません。」
❖補足文
(※①誰が罪を犯したのですか~その両親ですか。…罪と病気、障害に関する人々の考えについては、5:14の(以前説明しました)解説参照。
親と罪と子の関係については<出エジプト記20:5><申命記5:9>参照。
このモチーフとしては一連の話の結びとして9:34節に再登場し、41節で逆転される。
✤<出エジプト記20:5>と解説はされておりますが、ここは20:1より抜粋させてもらいますね。これはヤハウェのあの有名なモーセの「十戒」です。ちなみに、<申命記5:9>も同じ「十戒」です。
神は次のすべての言葉を告げて言った。
「わたしはヤハウェ、あなたの神。
あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。
他の神々があなたのためにわたしの面前にあってはならない。
あなたは自分のために像を作ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、
また地の下の水のなかにあるもののいかなる形も作ってはならない。
あなたはそれらにひれ伏しても、
それらに仕えさせられてもならない。
まことに、わたしヤハウェ、あなたの神は熱愛する神である。
わたしを憎む者には、父達の罪を息子達、
三代目の者達、四代目の者達に報い、
わたしを愛する者達、わたしの命令を守る者達には、
幾つもの氏族まで恵みを行うものである。」
と、2つまで紹介しました。
しかし、イエスは⁑太文字で示した個所の言葉通り、盲人の彼にでも、彼の両親に罪があるのでもないと述べておられます。
そしてさらに、9:41で「仮にあなた方が盲人であったとすれば、あなた方に罪はなかったことであろう。」と述べられています。つまり、この解説の通り、逆転しています。言い換えるなら、『生まれた時から盲人であるよりも、神に対して盲人であることが罪である』と述べているのです。)
ユダヤ人共同体の拒絶反応
彼を、かつての盲人を、ファリサイ派の人々のところに引いてゆく。イエスが泥を作って彼の両目を開いた日、それは安息日であった。
ファリサイ派の人々もまた、どのようにして視力が得られたのかを尋ね始めた。
彼等に言った。
「彼が泥を私の両目の上につけ、私は洗いました。そして見えるのです。」
するとファリサイ派の中のある人は言い始めた。
「その人間は、神からのものではない。安息日を守っていないのだから。」
けれども、他の人々は言っていた。
「どのようにして罪人にこのような多くの徴を行うことができようか。」
そして彼等の間に分裂が生じた。
そこで彼等は盲人にまた言う。
「その人がお前の両目を開いたということだが、お前はその人について何者だと言うのか。」
彼は言った。
「預言者です。」
ユダヤ人達は、その視力を得た人の両親を呼び出したその時までは、その人について、かつて盲目であり、視力が得られたということを信じなかった。
彼等に尋ねた。
「お前達が盲目で生まれたと言っている倅(せがれ)はこの者か。
それなら、どのようにして今は見えるのか、」
と言って。そこで彼の両親は答えて言った。
「この者が私どもの倅であること、盲目で生まれたことは分かっていますが、どのようにして今は見えるのか、私どもには分かりません。
誰が彼の目を開けたのか、私どもには分かりません。彼に尋ねて下さい。
もう大人です。自分のことは自分で語るでしょう。」
彼の両親がこれを言ったのは、ユダヤ人達を恐れていたからである。なぜなら、ユダヤ人達は彼のことをキリストだと公言する人があれば、会堂から追放された者になると、すでに決定していたからである。
このため、彼の両親は「もう大人です。本人に尋ねて下さい。」と言ったのである。
そこで、彼等はかつて盲目だった人を再び呼び出して彼に言った。
「神に栄光を帰しなさい。あの男が罪人だということは、我々には分かっているのだ。」
そこでこの人は答えた。
「あの方が罪人かどうか,私にはわかりません。私には一つのことが分かっています。自分が盲人だったのに今は見えるということです。」
すると、彼に言った。
「お前は何をしたのか。どのようにしてお前の両目を開いたのか。」
彼等に答えた。
「すでに申し上げたのに聞いて下さらなかった。なぜまた聞こうとなさるのです。まさかあなた方も彼のお弟子さんになろうというわけでもないでしょうに。」
彼を罵って言った。
「お前はあの男の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々には神がモーセに語ったことがあると分かっている。だが、あの男が何処からの者かは分からぬ。」
その人は答えて彼等に言った。
「まさに次のことこそが不思議なのです。皆さんは何処からの者かお分かりでない。ところが、私の両目を開いて下さったのです。私達には分かっています。
神が罪人には耳も傾けず、人が敬虔であって、神の意志(おもい)を行っていれば、その人には耳を傾けて下さるということを。
盲(めしい)で生まれた男の両目を誰かが開いたなどということは、未だかつて聞いたことがありません。
あの方が、仮に神からの者でなかったとすれば、何も出来なかったはずです。」
答えて彼に言った。
「お前は全身過ちにまみれて生まれて来たのに、そのお前が我々を教えようというのか。」
そして彼を外に追い出した。
信仰の光と信じない人々の盲目
イエスは人々が彼を外に追い出したことを聞くと、彼を見つけだして言った。
「あなたは人の子を信じるか。」
この人は答えて言った。
「その方は一体誰でしょう。先生、その方を信じることができますように。」
イエスは彼に言った。
「あなたは以前から彼を見ている。あなたに今語っている人がそれだ。」
彼は声を挙げた。
「信じます。主よ。」
そして、彼を礼拝した。
イエスは言った。
「審きのためにわたしはこの世に来た。
見えない人が見えるようになるため、見える人が盲人になるために。」
ファリサイ派の中で、彼と共に居合わせた人々がこれを聞いて彼に言った。
「まさかこの我々も盲だとおっしゃるのではないでしょうね。」
イエスは彼等に言った。
「仮にあなた方が盲人であったとすれば、あなた方に罪はなかったことであろう。
しかし今、自分達は見えると言っており、あなた方の罪はそのまま留まっている。」