tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

ヨハネの福音書 10.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

10.

 

 

 

 よき牧者の講話

 

  「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

羊達の中庭に門を通って入るのでなく、他のところを乗り越えて来る人、

それは盗人であり、強盗である。

門を通って毎朝入って来る人が羊達の牧者である。

この人には、門番が戸を開き、羊達がその声を聞く。

彼は自分の羊達をそれぞれの名前で呼び、羊達を連れ出す。

自分の羊達を皆、追い出してしまうと、彼等の先に立って行き、

羊達は彼の後について行く。その声が分かっているからである。

よそ者には決してついて行くことがなく、そのもとから逃げてしまうであろう。

よそ者達の声は分からないからである。」

 

 イエスは彼等にこの謎めいた譬えを話したが、この人達は自分達に語られたことが何であるのか知らなかった。

 

 そこで、イエスはまた言った。

 

 「アーメン、アーメン。あなた方に言う。

わたしが羊達の門である。

わたしよりも前に来た人々は皆、盗人であり、強盗である。

羊達は彼等の言うことを聞かなかった。

わたしが門である。

人がわたしを通って入るなら救われ、入ったり出たりして牧草を見出すであろう。

盗人が来るのは盗み、屠り、滅ぼすためにほかならない。

わたしが来たのは人々が命を得、豊かに得るためである。

 

 わたしが良い牧者である。

その良い牧者は、羊達のために自分の命を棄てる。

雇人であって牧者でない者、羊達が自分のものでない者は、

狼が来るのを見ると、羊達をそのままにして逃げ出してしまうものである。

狼はそれらの羊を奪い、散らしてしまう。

雇人であって、羊達のことを心にかけていないからである。

わたしが良い牧者であって、わたしは自分の羊達を知っており、

わたしの羊達もわたしを知っている。

父がわたしを知っており、わたしも父を知っているのと同様である。

そしてわたしは自分の命を、羊達のために棄てる。

 

 わたしには、この中庭には属さない他の羊達(選民以外の選ばれた民)もいる。

わたしはそれらの羊達も導かなければならない。

彼等もわたしの声を聞くようになり、いつか一つの群、一人の牧者となるであろう。

 

 わたしが自分の命を棄てるそのゆえに、父はわたしを愛している。

命を棄てるのは、それを再び受けるためである。

わたしからそれを奪う者は誰もいない。

わたしがわたし自身からそれを棄てるのである。

わたしにはそれを棄てる力があり、それを再び受ける力がある。

この命令をわたしは自分の父から受けたのである。」

 

 

 これらの言葉ゆえに、ユダヤ人達の間に再び分裂が生じた。

その中の多くの人々は、「悪魔に憑りつかれており、気が狂っている。どうしてお前達は、彼の言うことに耳を貸したりするのか」と言っていた。

他の人々は言っていた、「これらの言葉は悪魔に憑かれた人のものではない。悪魔には盲人たちの目を開くことは出来ないではないか。」

 

 

 

 宮清めの祭り

 

 その頃、エルサレムで宮清めの祭りがあった。

冬の事であった。イエスは神殿境内でソロモンの柱廊を歩いていた。

 

 すると、ユダヤ人達が彼を取り囲んだ。そして彼に言い始めた。

 

 「いつまで我々の魂を中途半端にしておかれるのか。

あなたがキリストなら、我々にはっきり言ってほしい。」

 

 イエスは彼等に答えた。

 

 「あなた方に言ったのに、信じようとしない。

わたしが自分の父の名において行っている業、それがわたしについて証している。

しかし、あなた方は信じようとしない。

あなた方はわたしの羊達に属さないからである。

わたしの羊達はわたしの声を聞き、わたしも彼等を知っており、

彼等はわたしについて来る。

そしてわたしは彼等に永遠の命を与えようとしており、

彼等は永遠に滅びるようなことはない。

また、わたしの手から羊達を奪うものはない。

 

 わたしの父がわたしに与えてくださっているものは

すべてに勝って大いなるものであり、父の手から奪うことのできるものは誰もない。

※②わたしと父とは一つである。

 

 

 ユダヤ人達は、彼を石殺しにしようとして再び石を取り上げた。

 

 イエスが彼等に答えた。

 

 「父から与えられた多くの良い業を、わたしはあなた達に見せた。

そのうちのどの業ゆえにわたしを石で撃とうというのか。」

 

 ユダヤ人達が彼に答えた。

「善い業のために石で撃とうというのではない。冒涜のためだ。

つまりお前は人間でありながら、お前自身を神にしようとしているからだ。」

 

 イエスが彼等に答えた。

 

 「あなた方の律法に、※①『わたしは言った。あなた方は神々である』、と書かれているではないか。

神の言葉の臨んだ人々、その人々を神々と言っており、そして聖書の廃れることがありえないとすれば、

それにもかかわらず、父が聖別して世に遣わしたわたしが、『自分は神の子だ』と言ったからといって、あなた方は『お前は冒涜している』と言うのか。

わたしが父の業を行っていないなら、私の言うことを信じるのをやめなさい。

しかし行っているなら、たとえわたしの言うことを信じなくても、業を信じなさい。

そうすれば、わたしのうちに父がおり、わたしも父のうちにいることを知るだろうし、次第によりよく知るようになるだろう。」

 

 すると人々はまた、彼を逮捕しようと狙い始めた。しかし彼等の手を逃れて出て行った。

 

 そして再びヨルダン河の向こう、ヨハネがはじめに洗礼を授けていた場所に立ち止まり、そこに留まった。

大勢の人々が彼のところに来た。そして、「ヨハネは何の徴も行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて真実だった。」と言っていた。

そして、そこでは多くの人々が彼を信じた。

 

 

 

 

❖補足文

※①『わたしは言った。あなた方は神々である』…これは、<詩編82:6>の言葉の引用です。これは、ダビデの時代の神殿において歌手に任ぜられていた、アサフというレビ人が書いた詩であり、歌です。解説によれば、アサフ、その子孫は第二神殿でも同じ任務についていたらしいです。以下に詩編を紹介します。

 

詩編82>

 

 アサフの歌

 

 神は神(エル)の集まりに立ち、神々のうちで裁く。

 

何時までお前達は不正に裁き、不法者等の顔を挙げるのか。

弱者や孤児を裁き、困窮者や貧乏人を義しいとせよ。

弱者や貧者を逃れさせ、不法者等から救い出せ。

彼等は知らず、悟らず、暗闇の中を歩き回り、

地の礎はみな揺るがされる。

 

 このわたしは言った。

お前達は神々、お前達は皆、いと高き方の子。

だがしかし、人のようにお前達は死に、

高官等の一人のようにお前達は倒れる。」と。

 

 神よ、立ち上がり、地をお裁き下さい。

まことに、あなたがすべての国民を嗣ぐのです。

 

 

 この詩を説明すると長くなりますが、冒頭の『神は神の集まりにおいて、神々のうちで裁く』は、天上界の神(ヤハウェ)とその神の子等(天使達)を指しているのですが、神の子等は、比ゆ的に、地上に住む預言者達(もしくは選民)をも指しているようです。

なので、イエスは、この詩編から、「預言者達を神々」と呼んでいるのに、わたしが「神の子」と言ったからとしてなぜ冒涜していると言うのか。と言っているわけですね。付け加えると、イエスは、選民とは、預言者も含まれる14万4000人のことですが、それとは別の異邦人である選ばれた人々のことも言っています。

 「わたしの羊なら、わたしを信じ、ついて来る。そうでない者は信じない。」

そして、イエスはこのことを行うために自分の命を棄てることが出来、そのことを父であるヤハウェも望み、

※②わたしと父は一つである。の意味につながります。

これは、解説の通り、意志の一致を意味しています。ところが、そのイエスの言っていることが分からないユダヤ人達は、イエスが神と同等にたとえていると捉え、「神への冒涜」と言ったわけです。ここもカトリックの言う三位一体につながりますよね。イエスは神と同じ、同一人物である、と。)

 

 

 

 

 

ヨハネの福音書 9.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

9.

 

 

 

 生まれながら目の見えない人の癒し

 

 そして通りがかりに、生まれながら盲目の人を見た。

彼にその弟子達が尋ねた。

 

 「ラビ、生まれながらには、※①誰が罪を犯したのですか。この人ですか。それともその両親ですか。」

と言って。イエスが答えた。

 

 「⁑この人が罪を犯したのでも、その両親でもなく、彼において神の業が顕れるためである。わたしたちは、昼である間に、わたしを派遣した方の業をなさなければならない。誰も業をなすことのできない夜が来ようとしている。世にある限り、わたしは世の光である。」

 

 これを言ってから、地面に唾きをし、唾で泥を作り、彼に、両目の上にその泥を塗り、そして彼に言った。

 

 「往きなさい。シロアム(遣わされた者の意味)の池で洗いなさい。」

 

そこで彼は立ち去り、洗い、見えるようになって帰って来た。

そこで隣人達、また以前、彼が物乞いであったことを見ていた人々は言い始めた。

 

 「この男は座って物乞いをしていた人ではないのか。」

ある人々は

 「この人だ。」

と言い、他の人々は

 「違う。しかし、似ている。」

と言っていた。この人は

 「私だ。」

と言った。

 

 そこで彼に言い始めた。

 「では、お前の目はどのようにして開かれたのか。」

 

 この人が答えた。

 「イエスと呼ばれる人が泥を作り、私の両目に塗って『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。そこで私が行って洗うと視力が得られたのです。」

 

 彼に言った。

 「その人は何処にいるのか。」

 

 彼は言う、

「わかりません。」

 

 

 

 

❖補足文

※①誰が罪を犯したのですか~その両親ですか。…罪と病気、障害に関する人々の考えについては、5:14の(以前説明しました)解説参照。

親と罪と子の関係については<出エジプト記20:5><申命記5:9>参照。

このモチーフとしては一連の話の結びとして9:34節に再登場し、41節で逆転される。

 

 

✤<出エジプト記20:5>と解説はされておりますが、ここは20:1より抜粋させてもらいますね。これはヤハウェのあの有名なモーセの「十戒」です。ちなみに、<申命記5:9>も同じ「十戒」です。

 

 

神は次のすべての言葉を告げて言った。

 

 「わたしはヤハウェ、あなたの神。

あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。

他の神々があなたのためにわたしの面前にあってはならない。

 

 あなたは自分のために像を作ってはならない。

上は天にあり、下は地にあり、

また地の下の水のなかにあるもののいかなる形も作ってはならない。

あなたはそれらにひれ伏しても、

それらに仕えさせられてもならない。

 

 まことに、わたしヤハウェ、あなたの神は熱愛する神である。

わたしを憎む者には、父達の罪を息子達、

三代目の者達、四代目の者達に報い、

わたしを愛する者達、わたしの命令を守る者達には、

幾つもの氏族まで恵みを行うものである。」

 

 

 と、2つまで紹介しました。

しかし、イエスは⁑太文字で示した個所の言葉通り、盲人の彼にでも、彼の両親に罪があるのでもないと述べておられます。

そしてさらに、9:41で「仮にあなた方が盲人であったとすれば、あなた方に罪はなかったことであろう。」と述べられています。つまり、この解説の通り、逆転しています。言い換えるなら、『生まれた時から盲人であるよりも、神に対して盲人であることが罪である』と述べているのです。

 

 

 

 

 ユダヤ人共同体の拒絶反応

 

 彼を、かつての盲人を、ファリサイ派の人々のところに引いてゆく。イエスが泥を作って彼の両目を開いた日、それは安息日であった。

ファリサイ派の人々もまた、どのようにして視力が得られたのかを尋ね始めた。

彼等に言った。

 

 「彼が泥を私の両目の上につけ、私は洗いました。そして見えるのです。」

するとファリサイ派の中のある人は言い始めた。

 

 「その人間は、神からのものではない。安息日を守っていないのだから。」

けれども、他の人々は言っていた。

 

 「どのようにして罪人にこのような多くの徴を行うことができようか。」

そして彼等の間に分裂が生じた。

そこで彼等は盲人にまた言う。

 

 「その人がお前の両目を開いたということだが、お前はその人について何者だと言うのか。」

彼は言った。

 

 「預言者です。」

 

 

 ユダヤ人達は、その視力を得た人の両親を呼び出したその時までは、その人について、かつて盲目であり、視力が得られたということを信じなかった。

彼等に尋ねた。

 

 「お前達が盲目で生まれたと言っている倅(せがれ)はこの者か。

それなら、どのようにして今は見えるのか、」

と言って。そこで彼の両親は答えて言った。

 

 「この者が私どもの倅であること、盲目で生まれたことは分かっていますが、どのようにして今は見えるのか、私どもには分かりません。

誰が彼の目を開けたのか、私どもには分かりません。彼に尋ねて下さい。

もう大人です。自分のことは自分で語るでしょう。」

 

 彼の両親がこれを言ったのは、ユダヤ人達を恐れていたからである。なぜなら、ユダヤ人達は彼のことをキリストだと公言する人があれば、会堂から追放された者になると、すでに決定していたからである。

このため、彼の両親は「もう大人です。本人に尋ねて下さい。」と言ったのである。

 

 そこで、彼等はかつて盲目だった人を再び呼び出して彼に言った。

 

 「神に栄光を帰しなさい。あの男が罪人だということは、我々には分かっているのだ。」

そこでこの人は答えた。

 

 「あの方が罪人かどうか,私にはわかりません。私には一つのことが分かっています。自分が盲人だったのに今は見えるということです。」

すると、彼に言った。

 

 「お前は何をしたのか。どのようにしてお前の両目を開いたのか。」

彼等に答えた。

 

 「すでに申し上げたのに聞いて下さらなかった。なぜまた聞こうとなさるのです。まさかあなた方も彼のお弟子さんになろうというわけでもないでしょうに。」

彼を罵って言った。

 

「お前はあの男の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々には神がモーセに語ったことがあると分かっている。だが、あの男が何処からの者かは分からぬ。」

その人は答えて彼等に言った。

 

 「まさに次のことこそが不思議なのです。皆さんは何処からの者かお分かりでない。ところが、私の両目を開いて下さったのです。私達には分かっています。

神が罪人には耳も傾けず、人が敬虔であって、神の意志(おもい)を行っていれば、その人には耳を傾けて下さるということを。

盲(めしい)で生まれた男の両目を誰かが開いたなどということは、未だかつて聞いたことがありません。

あの方が、仮に神からの者でなかったとすれば、何も出来なかったはずです。」

答えて彼に言った。

 

 「お前は全身過ちにまみれて生まれて来たのに、そのお前が我々を教えようというのか。」

そして彼を外に追い出した。

 

 

 

 信仰の光と信じない人々の盲目

 

エスは人々が彼を外に追い出したことを聞くと、彼を見つけだして言った。

 

 「あなたは人の子を信じるか。」

 この人は答えて言った。

 

 「その方は一体誰でしょう。先生、その方を信じることができますように。」

エスは彼に言った。

 

 「あなたは以前から彼を見ている。あなたに今語っている人がそれだ。」

彼は声を挙げた。

 

 「信じます。主よ。」

そして、彼を礼拝した。

 

 イエスは言った。

 

 「審きのためにわたしはこの世に来た。

見えない人が見えるようになるため、見える人が盲人になるために。」

 

 ファリサイ派の中で、彼と共に居合わせた人々がこれを聞いて彼に言った。

 

 「まさかこの我々も盲だとおっしゃるのではないでしょうね。」

エスは彼等に言った。

 

 「仮にあなた方が盲人であったとすれば、あなた方に罪はなかったことであろう。

しかし今、自分達は見えると言っており、あなた方の罪はそのまま留まっている。」

 

 

ヨハネの福音書 8.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

8.

 

 

 

 不倫の女の逸話

 

 そして各々自分の家に帰っていった。

 

 イエスは、オリーブ山へ行った。早朝、彼はまた神殿境内にやって来た。

民は皆次第に彼のもとへやって来た。彼は座って彼等に教え始めた。

律法学者とファリサイ派の人々が、姦通のさ中に捕らえられた女を連れてくる。

そして彼女を真ん中に立たせ、彼に言う。

 

 「先生、この女は姦通している現場で捕らえられました。

モーセは律法に、このような女どもは石で撃つようにと、私達に命じました。

さて、あなたは何と言われますか。」

 

 これは、彼を訴えることが出来るよう、彼を試みて言っていたのである。

エスはかがみ込んで、指で地面に書き付けていた。

彼等がしつこく尋ね続けていると、彼は身を起こして彼等に言った。

 

 「あなた方の中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 

 そして、再び身をかがめて地面に書いていた。

彼等はこれを聞くと、年長者達から始め、一人また一人と去って行った。

そして、彼だけが、真ん中にいた女と共に残された。

エスは身を起こして、彼女に言った。

 

 「女よ、彼等は何処にいるのか。誰もあなたを断罪しなかったのか。」

 

 彼女は言った。

 「主よ、誰も。」

 

 イエスは言った。

 

 「わたしもあなたを断罪しない。

行きなさい。そしてこれからはもう過ちをやめなさい。」

 

 

 

 世の光としてのイエスの証

 

 さて、イエスは再び彼等に語った。

 

 「わたしは世の光である。

わたしについて来る者は闇のうちを歩むことはなく、命の光を持つことになる。」

 

と言って。

 

 するとファリサイ派の人々が彼に言った。

 「お前はお前自身について自分が証している。お前の証は真実ではない。」

 

 イエスは答えて、彼等に言った。

 

 「たとえわたしがわたし自身について証しているとしても、わたしの証は真実である。なぜならわたしには自分がどこから来たか、どこへ往こうとしているかが分かっているが、あなた方はわたしが何処から来るのか、あるいはどこへ往こうとしているかが分かっていないからである。

あなた方は肉に基づいて審いているが、わたしは誰をも審かない。

わたしがたとえ審くとしても、わたしの審きは真である。

わたしは一人ではなく、わたしとわたしを派遣した父とだからである。

あなた方の律法にも二人の人間の証は真実であると書かれている。

わたしがわたし自身について証し、またわたしを派遣した父がわたしについて証している。」

 

 

 すると彼等が彼に言い出した。

「お前の父親は何処にいるのか。」

 

 イエスは答えた。

 

 「あなた方には、わたしも、わたしの父も分かっていない。

仮にわたしのことが分かっていたとすれば、わたしの父も分かっていたことであろうが……。」

 

 これらの言葉を神殿境内で教えている間に、宝物殿の中で語った。

しかし、彼を逮捕する者は誰もいなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。

 

 

 

 

 この世に属する人々の無知

 

 さて、再び彼等に言った。

 

 「わたしが往き、あなた方はわたしを求めるようになるが、自分達の罪のうちに死ぬであろう。わたしの往こうとしているところに、あなた方は来ることが出来ない。」

 

 そこで、ユダヤ人達は言い始めた。

 「この男は『わたしが往こうとしているところに、あなた方は来ることが出来ない』などと言っているが、だからといってまさか自害するつもりではあるまい。」

 

(イエスは)彼等に言い始めた。

 

 「あなた方は下からの者であり、わたしは上からの者である。

あなた方はこの世からの者であり、わたしはこの世からの者ではない。

それで、『あなた方は自分達の過ちのうちに死ぬであろう』と言ったのだ。

わたしがそれであることを信じないなら、あなた方は自分達の過ちのうちに死ぬであろうから。」

 

 

 そこで、彼(イエス)に言い始めた。

「わたしはそれだと言うが、お前は何者なのだ。」

 

 イエスは彼等に言った。

 

「何よりもまず、それこそがわたしがあなた方に語ろうとしていることではないか。

わたしにはあなた方について語ること、審くことがたくさんある。

しかし、わたしを派遣した方は真実であり、その方から聞いたこと、それをわたしは世に向けて語っているのである。」

 

 父のことを自分達に言っていることを彼等は知らなかった。

そこでイエスは彼等に言った。

 

 「あなた方は人の子を挙げる時、その時になって、わたしがそれであること、

わたし自身からは何も行わず、父がわたしに教えた通りにこれらのことを語っているのを知るであろう。

わたしを派遣した方はわたしと共にいる。

わたしがいつもその方の喜ぶことを行っているので、わたしを一人置き去りにすることはなかった。」

 

 彼が以上のことを語っていた間に、多くの人々が彼を信じた。

 

 

 

 

 エスアブラハム

 

 するとイエスは、自分の言うことを信じたユダヤ人達に向かって話し始めた。

 

 「あなた方がわたしの言葉に留まるなら、あなた方は本当に私の弟子である。

そして真理を知るようになり、その真理があなた方を自由にするであろう。」

 

 彼に向かって答えた。

「我々はアブラハムの子孫だ。※①未だかつて誰にも隷属したこともない。お前はどうして『あなた方は自由になるであろう』などと言うのか。」

 

 イエスが彼等に答えた。

 

 「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

罪を行う者はその罪の奴隷であり、奴隷はいつまでも家に留まるものではない。

子が永遠に留まるのである。子があなた方を自由にするなら、

あなた方は現実に自由の身となるであろう。

あなた方がアブラハムの子孫であることは分かっている。

しかし、あなた方はわたしを殺そうと狙っている。

あなた方のうちには、わたしの言葉が納められないからである。

わたしは父のもとで見てきたことを語っており、そしてあなた方も父親から聞いたことを行っている。」

 

 答えて、(ユダヤ人達は)彼に言った。

 「我々の父はアブラハムだ。」

 

 イエスが彼等に言う。

 

 「アブラハムの子供達であるのなら、あなた方はアブラハムの業を行っていたはずである。ところが今、あなた方はわたしを、神から聞いた真理をあなた方に語ってきた人間を、殺そうと狙っている。このことをアブラハムは行わなかった。

あなた方は自分達の父親の業を行っているのだ。」

 

 そこで(イエス)彼に言った。

「我々は淫行から生まれたのではない。我々には一人の父として神がいる。」

 

 イエスは彼等に言った。

 

 「仮に神があなた方の父であったなら、あなた方はわたしを愛したはずである。

わたしは神から来てここにいるのだから。

つまり、わたしはわたし自身から来ているのではなく、あの方がわたしを遣わしたのである。なぜ、わたしの語ることを知ろうとしないのか。

あなた方は悪魔という父親からのものであり、自分達の欲望を行いたいと思っているのだ。※②あの者ははじめから人殺しであった。

真理のうちに立ってはいなかった。彼のうちには真理がないからである。

彼が嘘を語る時には、※③自分に属するものから語る。

彼は嘘つきであり、嘘の父親だからである。

わたしの方は真理を話すので、あなた方はわたしの言うことを信じないのだ。

あなた方のうちでわたしについて罪を暴く者があるか。

わたしが真理を話しているなら、なぜあなた方はわたしの言うことを信じないのか。

神からの人は神の言葉を聞こうとする。

神からのものではないので、そのためにあなた方は聞こうとしないのだ。」

 

 

 ユダヤ人達が彼に答えて言った。

「我々はお前がサマリアの人で悪霊に取り憑りつかれていると言っているが、その通りではないか。」

 

 イエスは答えた。

 

 「わたしは悪霊に取り憑かれておらず、わたしの父を敬っている。

そしてあなた方はわたしを侮辱している。

わたしは自分の栄誉を求めない。それを求め、侮辱する人々を審く方がいる。

アーメン、アーメン、あなた方に言う。

人がわたしの言葉を守るなら、永遠にいたるまで決して死を看るようなことはない。」

 

 そこでユダヤ人達は彼に言った。

「今、お前が悪霊に取り憑かれていることを我々は知った。

アブラハムは死に、預言者達もまた。

だがお前は、『人が私の言葉を守るなら、永遠にいたるまで決して死を味わうことはない』などと言う。

お前はまさか、我々の父アブラハムよりも大いなる者ではあるまい。

彼は死んだ。預言者達も死んだ。お前自身を何者にしようというのだ。」

 

 イエスは答えた。

 

 「わたしがわたし自身に栄光を帰するなら、そのわたしの栄光は無に等しい。

わたしに栄光を与えるのはわたしの父である。

それはあなた方が我々の神だと言っている方である

あなた方はその方を知るに至っていないが、

わたしはその方のことがよく分かっている。

もし、わたしがその方のことを分からないというなら、

あなた方と同じように嘘つきになってしまう。

だが、わたしはその方のことが分かっており、わたしはその方の言葉を守っている。

あなた方の父アブラハムは、わたしの日を見ることになるというので歓喜した。

そして見て、喜んだのだ。

 

 そこでユダヤ人達が彼に向かって言った。

「お前はまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たことがあるというのか。」

 

 イエスが彼等に言った。

 

「アーメン、アーメン、あなたが方に言う。

アブラハムが生まれる前から、わたしはいる。」

 

 そこで彼に石を投げつけようとして、※④彼等は石を取り上げた。

だが、イエスは身を隠し、神殿境内から出て行った。

 

 

 

 

❖補足文

※①未だかつて誰にも隷属したこともない。…ヨセフス『ユダヤ戦記』7:8・33がエルアザルに言わせるように、自由であって隷属したことがないというのがユダヤ人達の誇りであった。前節の言葉はこの誇りを傷つける。

※②あの者ははじめから人殺しであった。…<ヨハネ43:12>は、悪魔の業をカインの兄弟殺し<創世記4:8>と結びつける。

※③自分に属するものから語る。機械的に訳したが、「自分の特質に基づいて」、あるいは「その本性から」。(新共同訳)

※④彼等は石を取り上げた。…<レビ記24:15-16>は、冒涜する人を石で撃ち殺すように命じている。)

 

 

 

 

 第8章でした。

赤文字にしました個所は読んで字のごとく、まさにこの世の支配者達、グローバル連中、そして世の政治家連中のことですね。日本の政治家もキッシーとかもう、隠す気すらない赤裸々状態ですしね。親分のバイ〇ンに倣って悪事をやりたい放題です。

彼等は常に「嘘」をつけばつくほど良いと教えており、それも大きな嘘をつき、より多くの者達を騙すことが出来れば、もしくは人々を苦しめることが出来れば自分達の神を喜ばせられる、神からその見返りとして富と栄光を多分に受けることが出来るということを本気で信じております。そして、霊的なパワーを得られることも疑っておりません。

これまでもお伝えしてきている通り、あらゆる恐ろしい犯罪行為も彼等にとっては「悪」ではなく、「素晴らしく善いこと」になっているのです。

そして、これも聖書の中で預言されていたことなのですが、この善悪の逆転的悪魔の思想を、現在この世に半ば強制的に推し進めてきています。

それも加速させてきています。

民衆にも「悪いこと」が「善いこと」として受け入れるようにしなければ、この世で生きられないように仕向けてきているのです。

これはつまり、私達ゴィムも自分達と同じ「狂人」にさせたいということですし、彼等の終末の最終目的は聖書預言<マタイ10:15>の通り「ソドムとゴモラ」時代よりも酷い世界をつくることを目指しているのです。

 

 <マタイ10:15>

あなた方に真実に言いますが、審きの日には、その都市よりもソドムとゴモラの地の方が耐えやすいでしょう。

 

 既にご存じの人も多いかと思いますが、現在特にアメリカではまさにバイ〇ンによって、この預言の通りの世界を加速的に作り出しています。

大問題になっている溢れる移民問題移民問題は世界中でおきていますね。)もそうですし、麻薬を合法化してドラッカーを増産させたり、人身売買も世界中で増大しているといいます。

次々と起こされる戦争も、WHOのパンデミック条約もそうですし、人工的な気象異常や鳥インフルエンザなどのおかしな流行も、わざと食糧飢饉を作り出しています。

そして彼等の最も熱がある計画は、キリスト教の完全なる弾圧。排教を計画しているといわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨハネの福音書 7.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

7.

 

 

 

 仮庵祭にのぼるイエス

 

 この後、イエスガリラヤをめぐり歩いていた。

つまりユダヤをめぐり歩こうとはしなかったのである。ユダヤ人達が彼を殺そうと狙っていたからである。

 

 さて、ユダヤ人達の祭りである仮庵祭が近かった。

そこで、彼の兄弟達が、彼に向かって言った。

 

 「ここから移れ。そしてユダヤに征け。行っているお前の弟子達も見ることが出来るように。ことをひそかに行い、自分が公のものであることを求めるような人は誰もいない。これらのことを行っているなら、お前自身を世に顕せ。」

 

 つまり彼の兄弟達も彼を信じていなかったのである。

そこで、イエスは彼等に言う。

 

 「わたしの時機(とき)はまだ来ていないが、あなた方の時機はいつでも用意されている。世はあなた方を憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。

わたしが世について、その業が邪悪であることを証しているからである。

あなた方は祭りにのぼるがよい。わたしはこの祭りにはのぼらない。

わたしの時機はまだ満たされていないからだ。」

 

 こう言って、自身はガリラヤに留まった。だが、自分の兄弟達が祭りにのぼった時、その時になってあらわにではなく、いわばひそかに彼もまたのぼった。

 

 さて、ユダヤ人達は祭りの間、彼を求めていた。

そして、「あの男は何処にいるのだ。」と言っていた。そして群衆の間で彼について大いに囁きあわれていた。

一方で、ある人々が「善い人だ」と言い、他方、他の人々は、「いや違う、群衆をたぶらかしているのだ」と言っていた。

もっともユダヤ人達への恐れのため、彼について公然と語る者は誰もいなかった。

 

 

 

 エスの教えと安息日の癒し

 

 既に祭りが半ばとなった頃、イエスは神殿境内にのぼって教え始めた。

するとユダヤ人達は驚いていた。

「この男は誰にも師事したことがないのに、どうして文字がわかるのか。(つまり律法を知っているのか)」

と言って。

 

そこでイエスが彼等に答えて言った。

 

 

 「わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを派遣した方のものである。

この教えについて、それが神からか、あるいはわたしがわたし自身から語っているか、人がその方の意志を行いたいと思っていれば、知るようになるはずである。

自分から語る人は自分の栄誉を求めるが、自分を派遣した方の栄光を求める人は、その人こそ真実であって、彼のうちに不義がない。

モーセがあなた方に律法を与えた。そしてあなた方はそれを持っているではないか。

だが、あなた方のうちにその律法を行おうとする人は誰もいない。

なぜあなた方は、わたしを殺そうと狙うのか。」

 

 

 群衆は答えた。

 

 「お前は悪魔に憑かれている。誰がお前を殺そうと狙っているのか。」

エスは答えて彼等に言った。

 

 「一つの業をわたしが行い、あなた方は皆驚いている。

このためにこそ、モーセはあなた方に割礼の掟を与えたのだ。

これはモーセからではなく、父祖達からである。

そして、あなた方は安息日にも人に割礼を施している。

人がモーセの律法を破らないために安息日に割礼を受けるとすれば、安息日にわたしが人を全身健やかにしたといって、なぜわたしのことを苦々しく思うのか。

うわべで裁くのをやめて、義しい裁きを下しなさい。」

 

 

 

 イエスの起源に関する意見の対立

 

 さて、エルサレムの住民のうちの幾人かが言っていた。

 

 「この男は、指導者達が殺そうと狙っている人物ではないのか。

それなのに、どうだ、公然と語っており、あの人達は彼に何も言わない。ひょっとすると指導者達はこの男がキリストだと本当に知ったのだろうか。

しかし、我々にはこの男が何処からの人かが分かっている。

※①キリストが来る時には、何処からの人かは誰も知らないはずだ。」

 

 そこで、イエスは神殿境内で教えている時に、叫んだ。

次のように言った。

 

 

 「あなた方にはわたしが分かっており、何処からの人であるかも分かっている。

しかしわたしはわたし自身から来ているのではない。

わたしを派遣した方、あなた方にはわかっていないその方は真である。

わたしにはその方が分かっている。

わたしはその方から来た者であり、その方がわたしを遣わしたのだからである。

 

 

 そこで、人々は彼を逮捕しようと狙った。

しかし彼に手をかける者は誰もいなかった。彼の時がまだ来ていないからである。

群衆の中からは多くの人々が彼を信じた。

そして、「キリストが来る時には、この人が行ったよりも多くの徴を行うだろうか」と言っていた。

 

 

 

❖補足文

※①キリストが来るときには~はずだ。…少し後からの資料を見ると、当時のユダヤ人の間には、ベトレヘム待望<マタイ2:5><ミカ5:2><ヨハネ7:42>と並んで、人の子はエリヤによって紹介される時まで隠れているという伝承があったようである。

<マタイ2:5>参照

そこで彼等は彼に言った。

ユダヤのベトへレムでございます。なぜなら、預言者によって、次のように語られているからでございます。

 

 そしてお前、ユダの地、ベトへレムよ、

お前はユダの君主の中で決して最小の者ではない。

なぜならば、お前からわが民イスラエルを牧する指導者が出るからである。  )

 

 

 

 

 エスの行き先について

 

 ファリサイ派の人々は、群衆が彼についてこれらのことを囁いているのを聞いた。

そこで、祭司長達とファリサイ派の人々は、彼を逮捕するために下役達を遣わした。

 

 さて、イエスは言った。

 

 

 「わたしはまだしばらくの間あなた方と共にいる。

そして自分を派遣した方のもとに往く。

あなた方はわたしを求めるだろうがわたしを見つけることは出来なくなる。

わたしのいるところにあなた方は来ることが出来ない。」

 

 

 ユダヤ人達は互いに言い合った。

「この男は何処へ行こうとしているのだろう。我々が彼を見つけることが出来なくなるとは。まさかギリシャ人の間に分散しているディアスポラへ行って、ギリシャ人を教えようとしているのではあるまい。

(✤ディアスポラ…「移民」「植民」を意味する思想用語。ギリシャ語のディア(分散する)と、スピロ(種を蒔く)を語源とする。主にヘレニズム時代以降、パレスチナ以外の地に移り住んだユダヤ人およびそのコミュニティにつかわれた。)

 

 彼が言ったこの言葉はどういうことだ、

『あなた方はわたしを求めるだろうがわたしを見つけることが出来なくなる。わたしのいるところにあなた方は来ることが出来ない』とは。」

 

 

 

 活ける水の泉としてのイエス

 

 祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ。

次のように言って、

 

 

 ※②「誰か渇いている人があれば、わたしのところに来ていつでも飲むがよい。

わたしを信じる人は、聖書が言った通り、その人の内部から活ける水の川が何本も流れ出ることになる。」

 

 

 これは彼を信じる人が受けようとしていた霊について言ったのである。

つまりイエスがまだ栄光を受けていなかったので、霊はまだなかったのである。

 

 

 

※②「誰か渇いている人があれば~流れ出ることになる。…37-38節は、句読点のつけ方によって、「誰か渇いている人があれば、わたしのところに来るがよい。わたしを信じる人は飲むがよい。聖書が言った通り、わたしの内部からは活ける水の川が何本も流れ出ることになる」も可。

あるいは、「霊はまだなかったからである。」いずれにせよ、「霊について言ったのである」の説明で、「栄光を受ける前だったので、霊はまだ人々に与えられていなかった。」19:30,20:22参照。)

 

 

 

 

 イエスの出自に対する意見の対立

 

 群衆の中には、これらの言葉を聞いて、「この人は本当にあの預言者だ」という人々があった。他の人々は「この人はキリストだ」と言っていた。

だが、次のように言う人々もあった。「いくら何でもキリストがガリラヤから来るようなことがあるだろうか。聖書が、キリストはダビデの子孫のうちから、ダビデがいたベトレヘムから来ると言ったではないか。」

そこで、彼のゆえに群衆の間に分裂が生じた。

彼等の中のある人々は彼を逮捕したいと思っていたが、彼に手をかける者は誰もいなかった。

 

 

 

 エスを拒否する指導者達

 

 そこで、下役達は祭司長とファリサイ派の人々のところに戻って来た。

この祭司長達、ファリサイ派の人々が彼等に言った。

 

 「どうして彼を引いてこなかったのだ。」

下役達は答えた。

 

 「いまだかつてあのように語る人はありませんでした。」

するとファリサイ派の人々が彼等に答えた。

 

 「まさかお前達までたぶらかされてしまったのではあるまい。

指導者たちの中で、あるいはファリサイ派の人々の中で、彼を信じた人などまさかあるまい。それにしても、律法を知らないこの群衆は呪われた奴らだ。」

ニコデモが彼等に向かって言う。

この人は以前に彼の所に来たことがあり、指導者達の一人であった。

 

 「我々は、人を裁くことはしないのではないだろうか。」

彼等は答えて彼に言った。

 

 「あなたもガリラヤの出か。調べてみよ。

ガリラヤからは預言者の出ないことを見るはずだ。」

 

 

 

 

ヨハネの福音書 6.

ヨハネ福音書

 

 

 この第6章は誰もが一度は聞いたことのある、

エスが行ったあまりにも有名な奇蹟の一部です。

 

 

 

6.

 

 

 

 パンの増加

 

 この後、イエスガリラヤの、すなわちティベリアの海の向こう岸に行った。

大勢の群衆が彼について来ていた。彼が病んでいる人達の上に行った徴を観ていたからである。

エスは山に登った。そして自分の弟子達と共にそこに座っていた。ユダヤの人達の祭り、過越し祭が近かった。

 

 エスは目を上げ、大勢の群衆が自分達のもとにやって来るのを見て、フィリッポスに向かって言う。

 

 「この人達に食べさせるため、どこからパンを買ってこようか。」

これは彼を試して言っていたのである。

つまり、自分は何をすることになるかが分かっていたのである。

フィリッポスは彼に答えて言った。

 

 「各自がほんの少し取るにしても、200デナリオンのパンでも彼等には行き渡らないでしょう。」(※1デナリオンが労働者の1日の賃金だったと言われている。)

 

 彼の弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンドレアスが彼に言う。

 

 「ここに若者がいて、大麦のパンと5つの魚2匹を持っています。

けれども、これほど多くの人のためには、一体何の役に立つでしょう。」

 

 

 エスが言った。

 

 「人々を座らせなさい。」

 

 その場所には青草が多くあった。それで、数にして男5千人ばかりが座った。

すると、イエスはそれらのパンを取り、感謝を捧げてから座っている人々に分け与えた。あの魚も人々の欲しいだけ、同じように与えた。

人々が満ち足りると、自分の弟子達に言う。

 

 「無駄になるものが何もないよう、余ったパン屑を集めなさい。」

 

 そこで集めてみると、大麦のパン5つの食べ残しのパン屑で、

12の枝編み籠がいっぱいになった。

 

 すると、人々は彼の行った徴を見て、

 

 「本当にこの人は、世に来るはずのあの預言者だ。」

と言い始めた。

すると、イエスは人々が自分を王にするため、来て連れて行こうとしているのを知って、一人だけ山に引き籠った。

 

 

 

 海上のイエス

 

 日暮れになると、彼の弟子達は海辺に降りて行った。

そして船に乗り込み、海の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。

すでに闇になっていたのに、イエスはまだ彼等のところに来ていなかった。

大風が吹いており、海は荒れていた。

漕ぎ出して25から30スタディオン(※約5キロメートル)

ばかり行った時だった。

彼等が見ると、イエスが海の上を歩き、船に近づいて来る。

彼等は恐れた。彼が彼等に言う。

 

 「わたしだ。もう恐れることはない。」

そこで彼を船に迎え入れようとした。

すると船は往こうとしていた地にすぐに着いてしまった。

 

 

 

 

 群衆が来る

 

 その翌日、海の向こうにいた群衆は、一艘(そう)の他にはそこには小舟のないこと、またイエスがあの船に自分の弟子達と一緒に乗らず、彼の弟子達だけが出かけたことを見た。

ところが主が感謝を捧げ、彼等がパンを食べたその場所の近くに、他の小舟が数艘ティベリアから来た。

群衆はイエスも彼の弟子達もそこにいないのを見ると、自分達もそれらの小舟に乗り込み、イエスを求めてカファルナウムに来た。

そして海の向こう岸で彼を見つけると、

 

 「ラビ、いつここに着かれたのですか。」

と彼に言った。

 

 

 

 パンの講話

 

 イエスは彼等に答えて言った。

 

 「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

あなた方がわたしを求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからでしょう。なくなっていく食べ物のために業をなすのはやめて、※①永遠の命にまで留まる食べ物のための業をなしなさい。

それは、将来人の子があなた方に与えることになるものである。

その人の子は父である神が確証したからである。」

 

 すると彼等は彼に向かって言った。

 

 「神の業をなしていくために、私達は何を行えばよいのでしょうか。」

エスが答えて、彼等に言った。

 

 「神が遣わした者を信じること、これが神の業である。」

すると、彼に言った。

 

 「それでは私達が見て、あなたの言うことを信じることが出来るように、あなたはどんな徴を行ってくれるのですか。どんな業をなそうというのですか。

私達の祖父は荒野でマナを食べました。天から彼等にパンを与えて食べさせたと書かれている通りです。」

 

 すると、イエスは彼等に言った。

 

 「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

モーゼがあなた方に天からパンを与えた、

そしてあなた方がそれを持っているのではない。

私の父があなた方に天からの真のパンを与えつつある。

神のパンは天から降って、世に命を与えつつあるのだからである。」

 

 そこで、彼に向かって、

 

「主よ、そのパンをいつも私達にください。」

と言った。イエスが、彼等に言った。

 

 「わたしがその命のパンである。

わたしのところに来る人は、決して飢えることがない。

わたしを信じる人は、決して渇くことがない。

しかし、あなた方に言った。

あなた方は私を見て来たのに、信じようとしない。

父がわたしに与えたものは皆、わたしのところに来ることになり、

わたしのところに来る人を、わたしが外へ追い出すようなことはしない。わたしが天から降って今ここにいるのは、

自分の意志(おもい)を行うためではなく、

わたしを派遣した方の意志を行うためだからである。

父がわたしに与えてくださっているものを皆、

その中からわたしが一人も失うことなく、終わりの日に蘇らせること、

これが私を派遣した方の意志である。

 

 つまり子を見て彼を信じる人が皆、永遠の命を持ち、

わたしが彼を終わりの日に蘇らせること、

これがわたしの父の意志なのである。」

 

 すると、ユダヤ人達は、彼が

「わたしが天から降って来たパンだ。」

と言ったので、彼のことで囁きはじめた。

そして言い始めた。

 

 「この男はヨセフの息子イエスではないか。

俺達にはその父親も母親も分かっているではないか。

どうして今更、『わたしは天から降って来ている』などと言うのか。」

エスは答えて、彼等に言った。

 

 「互いに囁くのはやめなさい。

わたしを派遣した父が引き寄せるのでなければ、

誰もわたしのところに来ることは出来ない。

そしてわたしは彼を終わりの日に蘇らせることになる。

父から聞いて学んだ人は皆、わたしのところに来る。

預言者達の書に、『彼等は皆、神に教えられた者になるだろう』と書かれている。

誰か父を見て来た人がいるのではない。※②父のもとから来た者を除いては。

この者こそが父を見てきたのである。

 

 

 アーメン、アーメン、あなた方に言う。

信じる人は永遠の命を持っている。

わたしは命のパンである。

あなた方の祖父は荒野でマナを食べた。そして死んだ。

これは、人が食べると死なないように、天から降って来るパンである。

 

わたしは、天から降って来た、活けるパンである。

人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。

 

 わたしが将来与えることになるパンは、世の命のための私の肉である。」

 

 

 すると、ユダヤ人達は互いに激しく口論し始めた。

「この男は一体どうやって自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか。」

と言って。

そこでイエスは彼等に言った。

 

 「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、

あなた方は自分のうちに命を持っていない。

わたしの肉を食し、わたしの血を飲んでいる人は永遠の命を持っており、

わたしは彼を終わりの日に蘇らせることになる。

わたしの肉は真実の食べ物であり、わたしの血は真実の飲み物だからである。

わたしの肉を食し、わたしの血を飲んでいる人は、わたしのうちに留まり、

わたしも彼のうちに留まっている。

生きている父がわたしを遣わし、わたしが父ゆえに生きているように。

わたしを食している人もわたしゆえに生きることとなる。

 

 これは天から降って来たパンである。

祖父達が食べて死んだようではなく、

このパンを食している人は永遠に生きることとなる。」

 

 これらのことをイエスはカファルナウムで教えていた時、会堂で話したのであった。

 

 

 

 

❖補足文

※①永遠の命にまで~業をなしなさい。…「滅びつつある食べ物という業をやめて、いつまでも留まり、永遠の命にまで至らせる食べ物と言う業をなしなさい」も可能。

※②父のもとから来た者~見てきたのである。…これは、当たり前ですが、イエス自身のことを指しています。

 

 ✤✤以下はイエスが群衆にむかって、「自分の肉を食し、血を飲む者は、永遠の命を得るのだ」という、少々分かりづらい比喩で説明をしています。その比喩に対して、群衆は意味が掴めず、言葉通りに解釈しようとし、困惑する様子が描かれています。

現代のおバカなユーチューバーの中にも、この浅はかな群衆のように、言葉通りに受け止め「イエスカニバリズムを群衆に説いた」などと言う者もいます。馬鹿者なんで放っておきましょう。

もちろん、彼の肉と血とは、『神の教え』の譬えであり、彼がその永遠の命そのものへの鍵であることを伝えています。彼を自分のもののように(神の教えを受け入れなければ)永遠の命は与えられないということです。)

 

 

 

 

 弟子達の反応

 

 すると、彼の弟子達の中の多くが聞いて言った。

「この言葉は歯が立たない。誰がこれを聞いていることが出来ようか。」

 

 イエスは、自分の弟子達がこれについて囁いていることが自分の中で分かり、彼等に言った。

 

 「このことがあなた方を躓かせるのか。

それなら、人の子が前にいたところにのぼってゆくのを観るならその時には…。

霊こそが生かすものであって、肉は何の役にも立たない。

わたしがあなた方に語ってきた言葉は霊であり、命である。

しかし、あなた方の中には信じない人達がいる。」

 

 

つまりイエスは、誰が信じない人々で、誰が自分を引き渡すことになる人なのか、

はじめから分かっていたのである。

そして、言い始めた。

 

 「だからこそ、父から与えられているのでなければ、

誰もわたしのところに来ることは出来ないと言っておいたのだ。」

この時以来、彼の弟子達の中から多くの者が離れ去り、もはや彼と共に歩もうとはしなかった。

そこで、イエスは例の12人に言った。

 

 「あなた方も去って行こうというのか。」

シモン・ペテロが彼に答えた。

 

 「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。

あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

私達はあなたが神の聖者であることを信じ切っており、そしてすでに知っています。」

エスが彼等に答えた。

 

 「あなた方、この12人を選び出したのはわたしではなかったか。

しかしあなた方の中の一人は悪魔である。」

 

つまり彼はイスカリオテのシモンの子ユダのことを言っていたのである。

この男は例の12人の一人であり、後に彼を引き渡すことになるのだった。

 

 

 

ヨハネの福音書 5.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

5.

 

 

 

 ベトザタの池での癒し

 

 この後、ユダヤ人達の※①祭りがあって、イエスエルサレムにのぼった。

さて、エルサレムには羊門のそばにヘブライ語でベトザタと呼ばれる、

5つの回廊のある池がある。

それらの回廊には病んでいる人々、目の見えない人々、足の不自由な人々、

瘦せ衰えた人々等が※②大勢臥(ふ)せっていた

そこに一人の人がいたが、彼は30と8年間その病のうちにあった。

エスは、この人が臥せっているのを見、また既に長い間のことだと知って彼に言う。

 

 「健やかになりたいか。」

 

 病んでいる人は答えた。

「だんな、俺には水がかき乱される時、池に入れてくれる人がいないんでね。

俺が行こうとすると、その間に他の奴が俺よりも先に降りて行ってしまう。」

 

 イエスが彼に言う。

「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい。※③そして歩くのだ。

 

 その人は直ちに健やかになり、自分の寝床を担いだ。そして歩きだしたのである。

 

 

 

 

❖補足文

※①祭り…第6章と5章が錯簡(乱丁)によって入れ代わったという仮説を取れば、シナイ契約を記念した五旬祭だが、本文は祭りの名を明記しない。

※②大勢臥せっていた。…この後、「彼等は水の動くのを待っていた。時機が来ると、御使いが池に降って水をかき乱すことがあり、水がかき乱された後、最初に入った人はどんな病気にかかっていても健やかになるのが常だったからである」と伝える写本もある。

※③そして歩くのだ。…この言葉は「歩け」以外は<マルコ2:11>と共通している。そこでは罪だけが話題になり<5ー10節参照>、安息日にはふれられない。)

 

 

 

 

 安息日をめぐる論争

 

 ところがその日、それは安息日であった。

そこで、その癒された人にユダヤ人達が言い始めた。

安息日だぞ。お前の寝床を担ぐことは、お前には許されていない。」

 

 彼は彼等に答えた。

「俺を健やかにしてくれた人が俺に言ったのだ。

『あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ』ってね。」

 

 彼に尋ねた。

「お前に『担ぎなさい、そして歩くのだ』などと言ったやつは誰だ。」

 

 癒された人にはそれが誰であるか分からなかった。

その場所には群衆がおり、イエスは姿を隠してしまったからである。

 

 この後、イエスは神殿境内で彼を見つける。そして彼に言った。

「御覧、あなたは健やかになった。罪を犯すのはもう止めるのだ。

※④前よりも悪いことが身に起こらぬように。」

 

 この人は立ち止まって、自分を健やかにしたのはイエスだとユダヤ人達に告げた。

安息日にこれらのことをしていた、そのためにユダヤ人達はイエスを責めていた。

 

 

 ところが、イエスは彼等に答えた。

「わたしの父は今に至るまで業をなしている。わたしも業をなす。」

 

 それで、安息日を破ったばかりか、自身を神と等しいものにし、

神を自らの父とまで言っていた、そのことのために、

ユダヤ人達はますます彼を殺そうと狙うようになった。

 

 

 

 

(※④前よりも悪いことが身に起こらぬように。…病気と罪を結び付けるのは当時の常識だったようで、「いかなる悲しみも罪がなければ存在しない」とか、「病人は、神がそのすべての罪を赦すまでは、その時から立ち上がることが出来ない」といったラビの言葉から伝えられている。<マコ2:5も参照>。9章2にも出るが、9章3でこれは否定されている。)

 

 

 

 

 イエスの権能の根拠

 

 

 ところが、イエスは答えた。そして彼等に言い始めた。

「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

子は父が行うのを目にする以外、自分からは何もできない。

つまり、父が行うことであれば何でも、子も同じように行うのである。

父は子にほれこんでおり、自分の行うことすべて子に見せるからである。

そしてこれらのことよりももっと大いなる業を彼に見せることになる。

あなた方が驚くためである。

 

 父が死人達を起こし生かすように、子も自分の望む人々を生かすからである。

つまり父は誰も審かず、一切の審きを子に与えているのである。

すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。

子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。

 

 アーメン、アーメン、あなた方に言う。

わたしの言葉を聞いて私を派遣した方の言うことを信じる人は

永遠の命を持っており、審きに陥ることなく、

死から命へとすでに移ってしまっている。

 

 アーメン、アーメン、あなた方に言う。

死人達が神の子の声を聞くこととなり、聞いた人々が生きるようになる、

そのような時が来ようとしている。

今がその時である。

 

 父が自らのうちに命を有するように、

子にも自らのうちに命を持つようにさせたからである。

そして審きを行う献納を彼に与えた。

人の子だからである。

 

 次のことで驚くのはよしなさい。

時が来ようとしている。

その時になれば、墓にいる人達が皆彼の声を聞くこととなり、

善いことをした人達は命への甦りりのために、

悪いことをした人達は審きへの蘇りのために出て来ることになる。

わたしはわたし自身からは何もできない。

聞く通りに審く。

そしてわたしの審きは義しい。

わたしが自分の意志(おもい)ではなく、

わたしを派遣した方の意志を求めているからである。」

 

 

 

 

 

 エスを証するもの

 

 

 「わたしがわたし自身について証しているなら

※⑤わたしの証は真実ではない。

わたしについて証する方が他にいる。

そしてその方がわたしについて証している。

その証が真実であると、わたしには分かっている。

あなた方はヨハネのところに人を遣わし、彼は真理のために証した。

だが、わたしはその証を人間からは受け入れない。

これを言うのは、あなた方が救われるためである。

彼は燃えて輝くともし火であった。

あなた方はしばらくの間、彼の光を楽しみたいと思った。

 

 だが、このわたしはヨハネよりも大いなる証がある。

父がわたしに、成し遂げるようにと与えて下さっている業、

わたしの行いつつあるそれらの業こそが、わたしについて、

父がわたしを遣わしたことを証しているからである。

またわたしを派遣した父、この方がわたしについて証してきた。

その声をいまだかつてあなた方は聞いたこともないし、

その姿を見たこともない。

その方の言葉をあなた方は自分のうちに留まるものとして持ってはいない。

この方が遣わした者の言うことをあなた方は信じようとしないからである。

 

 ※⑥聖書を調べてみるがいい。

あなた方は自分がその聖書のうちに永遠の命を持っていると思い込んでいるのだから。

だが、それはわたしについて証したものなのである。

それなのに、あなた方は命を与えるためにわたしのところへ来ようとしない。

 

 わたしは人間から栄誉を受け入れない。

しかし、わたしは、あなた方のうちには神への愛がないことを知った。

わたしが自分の父の名において来ているのに、あなた方は受け入れない。

他の人が自分の名において来るなら、あなた方はその人を受け入れるであろう。

あなた方は互いに栄誉を受け入れ合っていてどうして信じることができようか。

あなた方は唯一の神からの栄光を求めないのか。

 

 わたしが父に対してあなた方を告発するだろうと思い込むな。

あなた方を告発する人は、あなた方が望みをかけているモーセである。

というのは、

仮にあなた方がモーセの言ったことを信じたとすれば、

わたしの言うことも信じたことであろう。

彼はわたしについて書いたからである。

彼の文字を信じなかったなら、どうしてわたしの言葉を信じることになるだろうか。

 

 

 

 

❖補足文

※⑤真実ではない。…唐突な印象を受けるが、30節に8:13のような反論を想定すればわかりやすいであろう。『ミシュナー』第3篇第3部2:9には「人が自分のために証言する時、その人には信用がおけない」とある。

※⑥聖書を調べてみるがいい。…または「あなた達は…聖書を研究している」(新共同訳)。証するものとして最後に聖書39-40節とその中心である律法の著者とさっるモーセ45-47節が挙げられる。ここに前提されるような考えを『ミシュナー』第4ペン第9部2:7「律法を多く学ぶほど命も増す。…人が律法の言葉を自分のものにしたなら、来るべき世の生命を自分のものにしたのである」と示している。

その他、<ソロモンの詩14:2、シリア語バルク書38:2,シラ書17:11,バルク書41章参照。>)

 

 

 

 

ヨハネの福音書 4.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

4.

 

 

 

 サマリアでの逸話

 

 さて、イエスヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けているということをファリサイ派の人々が耳にした。イエスはこれを知った時、もっとも、イエスが自分で洗礼を授けていたのではなく、弟子達が授けていたのではあったが、彼はユダヤを離れ、またガリラヤへと去って行った。

 

 だが、サマリアを通り抜けなければならなかった。

そこで、シュカルという名のサマリアの町に来た。それはヤコブがその子ヨセフに与えた※①地所の近くであったが、そこにはヤコブ※②があった。

さて、イエスは旅に疲れ果ててそのまま泉のところに座り込んでいた。

時は第6刻(正午)頃であった。

 

 サマリアの出の女が水を汲みに来る。イエスが彼女に言う。

 「飲ませてもらえないだろうか。」

 

つまり彼の弟子達は食物を買いに町へ行ってしまっていたのである。

サマリアの女が彼に言う。

 「あなたはユダヤ人であり、私はサマリアの女であるのに、

その私から飲ませるように願われるのですか。」

 

 つまりユダヤ人達はサマリア人達とはつきあわないのである。

 

 イエスが答えて、彼女に言った。

「あなたに神のこの賜物が、

そしてあなたに飲ませてくれと言っているのが誰か分かっていたなら、

あなたは自分の方から彼に汲ませてくれと願い、

彼はあなたに※③活ける水を与えたであろうに。」

 

 女が彼に言う。

※④旅の方、あなたは汲むものをお持ちでないし、井戸は深いのです。

あなたはどこからその※⑤湧き出す水を持って来るのですか。

あなたは私達サマリア人※⑥ヤコブよりも偉いのですか。

彼は私達に井戸を与え、彼自身もその子等も、

またその家畜もこの井戸から飲みました。」

 

 イエスが答えて、彼女に言った。

「この水を飲む人は皆、再び※⑦渇くであろう。

だが、私が与えることになる水を飲むなら、その人は永遠に渇くことがなく、

私が与えることになる水は、彼のうちで、

永遠の命にほとばしり出る水の泉となることだろう。」

 

 女が彼に向かって言う。

「旅の方、その水を私に下さい。

渇くことのないよう、またここへ汲みに来なくてもいいように。」

 

 彼女に言う。

「往ってご亭主を呼び、ここへ来なさい。」

 

 女が答えて、彼に言った。

「私には夫がありません。」

 

 イエスが彼女に言う。

「『私には夫がない』とあなたは言ったがその通りだ。

あなたには5人の夫があったが、今の人はあなたの夫ではないからだ。

あなたはこの真実を言ったのだ。」

 

 女は彼に言う。

「旅の方、私が看るところ、あなたは預言者です。

私達サマリア人の先祖は※⑧この山で礼拝しましたが、

あなた方ユダヤ人は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言われます。」

 

 イエスは彼女に言う。

「女よ、私の言うことを信じなさい。

あなた方がこの山でもなく、エルサレムでもなく、

父を礼拝するようになる時が来ようとしている。

あなた方は分からないものを礼拝し、

われわれは自分に分かっているものを礼拝している。

救いはユダヤ人達から来るからである。

真の礼拝者達が霊と真理のうちにあって

父を礼拝するようになる時が来ようとしている。

 

 今がその時だ。

事実、父は自分を礼拝する人々としてこのような人々を求めているのである。

神は霊である。

そして神を礼拝する人々は霊と真理のうちにあって礼拝しなければならない。」

 

 

 女が彼に言う。

「キリストと呼ばれるメシアの来ることが私には分かっています。

その方が来る時、私達に一切のことを告げて下さるでしょう。」

 

 イエスが彼女に言う。

「あなたに語っている私がそれだ。」

 

 

 この時、彼の弟子達が来た。

彼等はイエスが女と語り合っていることに※⑨驚いた。

もっとも、何を求めておられるのかとか、この女と何を語り合っておられるのかなどと言う者は誰もいなかった。そこで女は自分の水瓶を残して町に去って行った。

そして人々に言う、

「来て見て下さい。私のしたことすべて言った人がいます。

もしかしたらこの人がキリストではないでしょうか。」

 

 彼等は町を出て、彼の所へ来始めた。

その間に、弟子達は、

「ラビ、召し上がって下さい。」

と言って彼に頼んでいた。

 

 ところが彼は彼等に言った。

「私には食べるべき、あなた方の分からない食べ物がある。」

 

 そこで弟子達は互いに言い始めた。

「まさか誰かか彼に食べさせようと持ってきたわけでもないだろうに。」

 

 イエスが彼等に言う。

「私の食べ物は、私を派遣した方の意志(おもい)を行い、

その業を成し遂げることである。

確かにあなた方に言っているではないか。

※⑩『まだ4か月もある。そして刈り入れが来る。』と。

見よ、あなた方に言う。

自分達の目を上げて畑を観なさい。

刈り入れに向けて白っぽくなっているのを。

既に刈り入れ人が報酬を受けつつあり、永遠の命へと実を集めている。

種蒔き人と刈り入れ人とが共に喜ぶために。

つまり、『ある人が種蒔き人で、他の人が刈り入れ人だ』という※⑪言葉

この意味で真なのだ。

✤私はあなた方を、自分達の労苦しなかったものを刈り入れさせるために遣わした。

他の人々が労苦してきたのであり、あなた方はその人々の労苦の成果に与って(あずかって)いるのだ。」

 

 

 さて、その町のサマリア人の多くが、

「私のしたことすべて言った」と女が証したその言葉ゆえに、彼を信じた。

さて、そのサマリア人達は彼の所にやって来ると、

自分達のところに留まるように頼んだ。

そこで、彼は2日間、その地に留まった。

そして、彼の言葉ゆえに、ずっと多くの人々が信じるようになった。

彼等は、あの女に言っていた。

「もう、俺達はお前が言ったから信じているんじゃない。

つまり自分の耳で聞いて、この方こそ本当に世の救い主だと分かったんだ。」

 

 

 

 

❖補足文

※①地所…新共同訳が示しているように、<創世記48:22>の、ヤコブがヨセフに与えた「分け前」の源吾はシェケム(固有名詞としての日本語表示は通常シケム)。<ヨシュア14:32>は、ヨセフがそのシケムに葬られたという。

※②泉…11:12節に出る語と区別して「泉」と訳したが、11節でも言われる通り沸き出すことのない井戸である。補注「ヤコブの井戸」参照。

※③生ける水…本来は流れる水の意味であるが、人を生かすものの象徴として使われている。<エノク書48:1>参照。

※④旅の方…「主よ」(新共同訳)とも訳せるが、男に対する呼びかけ。

※⑤沸き出す水…女は「活ける水」を本来の意味「沸き出す水」で理解している。

※⑥父ヤコブヤコブイスラエルとも呼ばれ、12部族の父祖であるが、特にサマリア人の祖先、北イスラエルの祖と考えられていた。

※⑦渇く…<シラ書24:21ー23>では知恵(律法)がこのようにいわれている。

※⑧この山ヤコブの井戸の南に聳えるゲリジム山にはサマリア人エルサレムに対抗して神殿を建て、エルサレムの大祭司ヨハネス・ヒルカノスがこれを破壊した。

※⑨驚いた…ラビが女性と話すことは普通ではなかった。『ミシュナー』(3世紀末の、口伝律法の集大成)の「アヴォート」1:5参照。

※⑩『まだ4か月もある~刈り入れが来る』…「まだ先だ。種を蒔いても刈り入れの時が来るには4か月」といった諺の引用らしい。パレスチナの暦では穀物の種蒔きから刈り入れまでが4か月である。

※⑪言葉…「言葉」と訳したが、「蒔く人と刈り入れ人とは別の人」とでもいった諺であろう。<ミカ書6:15><ヨブ記31:8>にも見られるような蒔く人の立場から見た絶望的な観方が、刈る人の立場から逆転されている。

 

 

 ✤の部分の補足ですが、これの意味合いは、他の人々が労苦してきたものとは、イエスが世に現れるまでの預言者達やヤハウェの信徒達のことを指していて、その彼等の活動の成果に、あなた方(イエスの弟子達)はその恩恵に既に与っているのだから。という意味だと思われます。私的な意見ですが、そう取るのが自然のように思いました。

 

なぜなら、解説の<ミカ書6:15>のあたりの意味合いは、邪悪の者達に対する言葉であり、復讐の言葉であるからです。彼等(邪悪な者達)はどんなに求めても得られないと言っています。彼等が種を蒔いても刈り取ることは出来ないのです。<ヨブ記>も同じような意味合いとなっています。

 

 前後の文章で、「既に刈り入れ人が報酬をうけつつあり、永遠の命の実を集めている。種蒔き人と刈り入れ人とが共に喜ぶために。」とは、過去の預言者、およびヤハウェのために信徒を集め、神に認められ、永遠の命を約束された人々を指しているという意味にとれます。)

 

 

 

 

 

 ガリラヤでの第二の徴

 

 2日の後、彼はガリラヤに向けてそこを発った。

エス自身、預言者は自分の故郷では誉れをえないものだと証したからである。

さて、ガリラヤに来ると、ガリラヤの人々が彼を迎え入れた。

彼等も祭りに行ったので、彼が祭りの間にエルサレムで行ったことを全て見ていたからである。

 

 さて、彼はまたガリラヤのカナに来た。

水を葡萄酒にした所である。

※⑫王の家臣がいて、その息子がカファルナウムで病んでいた。

この人が、イエスユダヤからガリラヤに来たと聞き、彼の所にやって来た。

そして、下って来て自分の息子を癒してくれるようにと頼み始めた。

今にも死にそうだったのである。

ところが、イエスは彼に向かって言った。

「あなた方は徴と不思議を見ない限り、決して信じないであろう。」

 

 王の家臣が彼に向かって言う。

「主よ、私の幼子が死ぬ前に下って来て下さい。」

 

 イエスが彼に言う。

「行きなさい。あなたの息子は生きている。」

 

 その人はイエスの言った言葉を信じて、行き始めた。

彼がまだ下る途中で、彼の僕達が、彼の少年は生きていると言いながら彼を出迎えた。そこで、快方に向かった時刻を彼等に問いただすと、

「昨日の第7刻(午後1時頃)に熱が去りました。」

と彼に言った。

父親は、イエスが自分に「あなたの息子は生きている」と言ったその時刻にだったことを知った。そして、彼自身もその一族郎党も皆、信じた。

こうしてイエスユダヤからガリラヤに来て、水を葡萄酒に変えたのに引き続き、

またこの第二の徴を行ったのであった。

 

 

 ❖(※⑫王の家臣…ヘロデ・アンティパスの家臣。)