tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

シュメール文明(バビロン文明)は突然現れ、突然消えたのではない。

 

 よく、巷で言われている世界で最古の文明「シュメール」について、シュメール人はどこからともなく現れ、高度な文明を築き発展したが、なぜか突然と姿を消してしまった。なぜ彼等が消えてしまったのかは未だに謎である。

その最たる理由として、彼等は宇宙人であったから。などと馬鹿みたいな内容のデマが数多く出回っておりますが、あなたは本当にそんなデマを信じているのでしょうか?

 

 

■ シュメール文明が消えていった理由は、

実は農業の灌漑による土地の荒廃のせいだった。

 

 

 

<1>シュメール神話の「アヌンナキ」が人類の最初などではない。 

 

 

 『緑の世界史 上・下巻』クライブ・ポンディング著によれば、専門家達の調べでは、世界最初の人類はエチオピア南アフリカとを結ぶ熱帯・亜熱帯のような様々な場所に住んでいたことが判っています。その頃の人口はまだ当然少なく、まばらに分布し、主に植物を採集して食糧とし、動物の死肉をあさったり、自らも小さな動物を捕えながら少人数の集団で暮らしていました。この、狩猟採集を基本とする生活形態が農耕の始まる約1万年前ごろまで続いたとしています。

2000万年前に南アフリカや東アフリカに出現した人類は、約1万年前までに地球上のすべての大陸に分布を拡げてゆきました。人類は様々な能力を身に着けながら、ゆっくりと定住域を拡大していったのです。

 

 

 『緑の世界史』は環境の視点から世界史を見つめて20年間考察と文献、調査、歴史学者や考古学者、人類学者など様々な分野の科学者、経済学者など膨大な著作から多大な資料をもとに書かれた本です。著作のクライブ氏は、環境と歴史を20年近く調べ続けてきて、環境問題が単に自然環境だけの問題でなく、資源やエネルギーの利用、貧富の差、民族問題、世界観などの社会的な問題も考えに入れなければ理解できないものだと確信した。と前置きしています。

 

 というこの冒頭の文章だけでも、巷でよく宣伝される、シュメール神話を信じて宇宙人が人類の最初の「アヌンナキ」を創造したというのは、全くのデタラメであるということが分るはずです。

 

 

 

<2>世界最初の農業の開始は中国・西南アジア・中央アメリカの3地域である。

 

 

 世界最初の農業についても最初に開始し始めたのは中国や西南アジア、中央アメリカの3地域であり、それらの地域には共通性があり、同様の移行過程が認められています。中でも現在のパレスチナ、シリアからアナトリア南部を経てイランのザクロス山脈にいたる「三日月地帯」であるとしています。

 

 この作物を栽培し、家畜の放牧をして大量の食糧の供給を可能とするという生活様式にすることにより、人類はどんどん発展していくことになったのです。

その後、階級制を持つ複雑な定住社会に発展してゆき、人口も急増していきました。

農業発生前夜の約1万年前、世界の人口は約400万人で、その後極めてゆっくり増加して、前5000年頃には500万人に達したとされています。

 

 紀元前5000年を境に決定的な時代を迎え、大規模な定住社会の発展に人口は1000年ごとに2倍のペースで増え続け、紀元前1000年には5000万人、次の500年で1億人、更に紀元前2000年には2億人に達しました。

 

 

 

<3>定住農業から発展して都市となった

 

 

 定住農業がゆるやかに広がるにつれ紀元前7000年頃には西南アジア地域の各地に小さな集落が誕生し、その後次第に西南アジア全域で定住性が高くなっていったようです。更に恒久的に大人口を支えられるまでに食糧生産が向上した地域では、人類史上初の都市が出現しました。

既に紀元前6500年頃には、防壁に囲まれた面積が4ヘクタールほどの小さな町がエリコに出来ていました。

アナトリア南部のッァタル・フュークでは面積が13ヘクタールを超える大きな町も成長しつつありました。紀元前6000年頃には西南アジアでは人類社会の転換の第一段階は完了し、定住生活が一般的になっていきました。

 

 この農業の発展と定住生活の安定が生産物=財産とみなされ、また非農業従事者、土器や道具、その他の集団が必要とする特別な製品を作る職人たちなど、様々な社会的な環境が生まれる中で、宗教的、社会をまとめて指導する政治的な支配階級が出現したとされています。

 

 

 ……とここまでで、はっきりしていることは、西南アジアつまり、メソポタミアの地域から始まった農業の発展、食糧の安定化などの理由でもって人口の増加につながり、更に時代を経て都市化となったわけで、いきなり高度なシュメール文明が起こされたわけではなかったということです。

 

 

 

<4>メソポタミアの灌漑農業

 

 

 上記にも記したように、西南アジアの最初の農業は乾燥地で起こされました。すなわち、穀物生産に必要な水はすべて天水、降水による雨に依存していたのです。

 

 紀元前5500年頃、メソポタミアの東縁部にあたるイラン南西部のフジスタンで、灌漑が始まりました。このことは、かつて農業を生み出したのと同じ人口圧が存在していたことを示しています。

灌漑は水路の建設や維持のために天水農業よりもさらに労働が必要ですが、小面積の農地からでもはるかに高い生産が可能になることが有利な点でした。

 

 紀元前7000年~6000年の間、西南アジアの農業人口の分布は主として高地に限られていました。ところがその後人口が急激に増加したとみえて、1000年間ほどで天水農業に適した土地は耕し尽くされてしまったのです。この時点でいくつかの集落はメソポタミアに進出して、厳しい環境の土地の開墾を余儀なくされました。

ここは十分な降水、石材、木材も無く、灌漑技術は不可欠のものとなりました。はじめのうちは居住地は比較的耕作の容易なメソポタミア北部に展開し、その後次第にもっと大規模な灌漑の必要な南部地域に広がっていきました。

 

 土地は肥沃で、はじめのうちは豊かな収穫があり、高い余剰生産も確保されましたが、水路の建設と、維持の技術的な問題から、土地はあっても灌漑できるのはその内一部に限られていました。このため、限られた土地で最大の生産を上げるために組織と統制が重要性を帯びてきたのです。

人口が増加の一途をたどり、それ以上拡張すべき土地もなくなってくると集落の密度は高まりました。こうした要因がすべてメソポタミアの発展の原動力となったのです。

 

 

 

<5>都市化と宗教組織

 

 

 紀元前5000年を過ぎる頃には、メソポタミア一体には文化的にはほぼ同一の社会が広がっていました。主に川の堤防に沿って集落が作られ、灌漑設備も比較的小規模で単純なものでしたが、このような居住地にはほとんどが小さな町や村の体裁をなして、広い範囲に等間隔に散在していました。農業は食糧の確保に不可欠のものでしたが、狩猟や周辺の沼沢地で漁労も依然として重要な食糧獲得の手段でした。

 

 この地域のもっとも古い都市でも、定住の初期からかなりの程度進んだ社会組織があったことが考古学調査で分かってきています。ほとんどすべての小都市の中心には大神殿があり、住民全員の食糧の生産と分配を管理して、農民、聖職者、職人の各階層に資源を再分配する中心的な役割を果たしていました。

 

 紀元前4000年以降の南部メソポタミアでは、このような社会内部を統制する動きは益々強くなり、ウルクには巨大大神殿が立ち並び、定期的に建て直されました。

中でも大きなものは、間口60メートル、奥行き67メートル、高さ12メートルもありました。こうした巨大建造物の造営には、膨大な労働力を組織化する必要があったはずで、当時すでに宗教組織の統制力は極めて強大であったことを物語っています。

 

 紀元前3500年には、祭祀の中心地になっていたウルク周辺には小集落しかなかったのですが、500年後にはウルクの人口は急激に増加し、約5万人に達し、一方周辺の集落の数は逆に146~24までに減少しました。

このことは、政治権力がさらに強大化し、その統制のもとで都市への強制移住が行われたことを反映していると考えられています。ウル、キシュ、ラガシュ、ウンマなど周辺諸都市でもこれほど急激ではなくとも、同様の過程が進行しました。これらの都市の人口はどれも1万~2万人でした。

 

 こうした都市化の進行と並行して、灌漑施設は次第に大規模で複雑になり、河川から隔たった土地にも建設されるようになりました。人口は増え続け、食糧増産に必要な農地を拡げるために、広大な地域にわたって自然の流路のないところまで用水路が掘り進められました。

 

 紀元前3000年ごろまで、シュメールの名で知られるメソポタミア南地域では8つの強大な都市国家が互いに覇権を競っていました。しかし、これらの都市の内部では社会の激変が起きていたのです。実は、この頃には、耕作者自身が必要とする量をはるかに上回る大きな生産が可能となり、こうした余剰食糧の存在が社会的に大きな意味を持つことになっていました。

余剰生産物の輸送、貯蔵、再分配にわたる流通を組織化できる機関が必要となったのです。余剰生産物の管理は、必然的に農地の所有者と耕作者、あるいは食糧の権利者といった問題に発展し、この意味では神殿はその当初からメソポタミアの社会形成の主役となっていたのです。

 

 最初の定住社会では、神殿がすべての土地を所有し、聖職者と官史が食糧の集荷、貯蔵、分配の責任を持ち、平等に配給されることが多かったのです。例えばシュルッパクでは神殿が9660頭のロバを所有するなど他の農業手段も集中的に管理し、耕作は賊役労働によってまかなわれました。

 

宗教的特権の階級の権力は留まるところを知りませんでした。権力者達は常に支配を強化し、余剰生産物を収奪し、少しでも多くの資源を支配下に収めることによって更に強大な権力を手にしたのです。

 

 

 

<6>農業による環境破壊

 

 

 農耕の開始に伴い、定住型の社会が成立して人口が着実に増加するようになると、環境に加わる負担は増大していきました。その影響は初めのうちこそ局所的にしか現れませんでしたが、農耕の拡大に伴って広い地域に広がっていきました。

北ヨーロッパや西ヨーロッパの温帯地域では、気候が温暖で降水量が多く、土壌も肥沃なために、生態系はそうした負担にもかなり耐えることが出来ました。しかし、その他の地域では生態系が破壊されやすく、人口密度も高かったことから、農耕が始まり定住型の生活形態が確立してから1000年も経たずにその影響が現れ始めました。

 

 農業という言葉は、人類に都合のいい動植物を育てるために、自然の生態系を破壊して人工の生活空間を作ると言う意味を含んでいます。すなわち、農業を行うことで生態系が本来的に備えているバランスや固有の安定性は失われてしまうのです。

自然状態の地表は多様な植物によって半永久的に覆われていますが、農業が始まると少数の作物が一時的に空間を利用するだけとなります。地表は激しい風雨にさらされ、自然の生態系の場合に比べて土壌の浸食速度ははるかに速くなります。

 

 灌漑の利用はさらに破壊的な意味を持ちます。灌漑農法は降雨だけによる天水農法よりもさらに人工的な環境を作り出すからです。やせた土地であっても、大量の水をやれば好きな作物を作れるかもしれません。しかし、それは長期的には破壊的な結果につながるのです。余分な水は地下に浸透し、地域によって早い遅いの差はあっても、いずれは地下水位が上昇して土壌は水浸しになるのです。

とくに地表からの水分蒸壌の化学組成をも変えてしまうのです。

つまり地下から高濃度の塩分を運び上げ、特に地表からの水分蒸壌が激しい暑い地域では、最後には分厚い塩類の層が地表をおおって農耕が不可能となるのです。

これを避けるには、水をやりすぎないことと土壌を長期間休ませることの他に方法はありません。

 

 大規模な環境の改変が最初になされたのはメソポタミアです。従って、環境破壊の広汎な影響がメソポタミアで最初に現れたことも驚くにあたりません。

シュメール文明の初期の都市を発掘した一人であるレオナード・ウーリーは、1936年の著書『カルデア人のウル』の中で、樹木もほとんどなく荒涼とした現在のメソポタミア南部の景観に困惑して、次のように述べています。

メソポタミアの砂漠を見ただけでは、古代世界を思い出すことは殆ど不可能だろう。現在と当時とはあまりにも違いすぎる。この空虚な荒野にかつては花が咲き乱れ、人口稠密(ちゅうみつ)な都市に食べ物をもたらしていたなどと納得することはできない。ウルが帝国の首都であり、シュメールがかつては広大な穀倉地帯であったなら、どうして人口は次第に縮小してついに無に帰してしまったのだろう。他でもない、大地が人を裏切ったとでもいうのだろうか。」

ウーリーの問いかけに対する答えはこうです。シュメール人自身が、南部メソポタミアの厳しい環境の中から骨折って作り上げた世界を破壊してしまったからなのです。

 

 メソポタミアの北部では、晩秋から冬にかけて雨が降るために状況はまだましだったものの、降水量が極めて少ないことに変わりなく、その雨も南部までは届かなかったことが多かったのです。このためシュメール地域で作物を作ろうとするならば、貯水と灌漑の2つが絶対に必要でした。しかし、シュメールの地域においては貯水も灌漑も長所と短所を併せ持つ諸刃の剣になりました。初めのうちは長所の方が短所よりも勝っていましたが、次第に一連の重大な問題が目立つようになってきたのです。

 

 夏の気温はしばしば40度に達し、地表から水分の蒸発が激しいために土壌中の塩類濃度が上昇しました。貯水と灌漑の結果、地中深くに蓄えられて水の量は増大し、それに従って地下水位は異常に上昇し、地表が水浸しになる現象が発生しました。この地域の土壌は透水性が非常に低い上に、地形が極めて平坦であることから水がよどみやすく、この「帯水現象」に拍車をかけたのです。

 

 

 紀元前約3000年に、シュメール社会は世界で最初の文字を持ちました。都市国家の寺院には詳細な行政記録が保存されています。これ等の記録をもとに、環境問題が深刻化し、農耕方式が変化していった様子を推し量ることができるのです。

 

 シュメールの初期王朝時代は紀元前2370年に外部の征服を受けるまで600年以上続きましたが、その時期には、キシュ、ウルク、ウル、ラガシュおいった主要な都市はいずれも軍事国家でした。これらの社会は、灌漑によって余剰の食糧に依存しながら、国家を動かす官僚と、絶えず地域支配をもくろむ軍隊を養っていました。

これらすべての国家は、小麦と大麦の大規模栽培に支えられていましたが、灌漑による環境悪化によってこうした農業の基盤は徐々に蝕まれていきました。

 

紀元前2500年までには小麦の生産は全作物のわずか15%に低下しました。2100年までにウルは小麦の生産を放棄しました。

シュメールは全域で見てもこの時点で小麦の生産は全作物の2%にまで落ち込んでいました。2000年までにイシンとラルサの両都市は小麦の生産を止めました。

そして1700年までには、南部メソポタミア全域で小麦の栽培が出来なくなるほどに土壌の塩類濃度は高くなっていたのです。

 

 

 <7>シュメール文明の崩壊

シュメールとその年の歴史は、農業基盤の衰退と

驚くほど歩調を合わせて推移している。

 

 

 栄華を誇った強力な都市国家時代からバビロニアによる征服にいたるこの期間を通して、農産物の収穫は一貫して減り続けました。その結果、この地域では独立国家を長期間維持することが非常に困難でした。

紀元前1800年には、収穫量は初期王朝時代の3分の1程度になっていましたが、それまでにシュメールの農業基盤は事実上崩壊し、メソポタミア文明の中心地は北部へと移ったままになりました。

北部では帝国が代々続いて地域を支配しましたが、一方シュメールは人の住まない疲弊した辺境としての意味しか持たなくなってしまったのです。

シュメール文明を支えた人工の農業方式は極めて脆弱であり、それが最後には文明を崩壊に導いてしまったのです。

 

 

 

 ……はい。以上でシュメール文明が消えた本当の理由は、冒頭のタイトルの通り、農業の灌漑による土地の荒廃のせいだった。で間違いはありません。

突然高度な文明が現れ、突然消えたのではなく、徐々に高度な文明を築き、発展し、最後は人工的な農法によって徐々に自滅したということですよね。

 

 どうしてこれらのデマをTVやネット、又は書籍で宣伝するのか?

それはつまり、知っている人は知っている、『宇宙プロパガンダ』を推し進めたい

イルミ側の策略なのです。

宇宙人は古代から地球に関与していたんだ。霊的な創造主など存在しない」というのを人類に信じさせたいのです。

 

 しかし、宇宙人など存在しません。

そして、進化論のように自然に発生した生物は一つもなく、現代の科学者が結論づけているように、「どの生物も、進化をたどる過程を見せたものは存在せず、すべての生物は突如としてこの世に現れた。と認めています。

それはつまり、何らかの『創造者』がいたということを意味しているのであり、賛否両論の意見があるものの、もはやそれ以外の正しい答えは見出せないと言っているのです。

 もっと公に宣伝してもらいたいものですが、相変わらず学校教育においては、間違ったダーウインの進化論を教えています。