tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

『イザヤ書』3.

イザヤ書

 

 

【第5章】

 

 

 わが愛する者の 葡萄園の歌

 

 わたしは歌おう、さあ、わが愛する者のために

彼の葡萄園について、わが愛の歌を。

 

 わが愛する者は葡萄園を持っていた

肥沃な山腹に。

彼はそこを掘り起こして石を除き、

そこに良い葡萄の木を植えた。

またその真ん中に塔を建て、その中に酒ぶねまで掘って、

甘い葡萄の実るのを待ち望んだ。

ところが実ったのは、腐った葡萄。

 

 ところで、エルサレムの住民のユダの人よ、

裁いてくれ、さあ、わたしとわたしの葡萄園との間を。

 

 わが葡萄園のために成すべきことで

まだわたしがしていなかったことは一体何か。

良い葡萄の実るのを待ち望んでいたのに、

なぜ腐った葡萄が実ったのか。

そこで今わたしが、さあ、あなた達に告げよう、

わたしが我が葡萄園にすることを。

 

 すなわち、その垣根を取り去って荒れるにまかせ、

塀を壊して踏みつけられるがままとする。

わたしはこれを荒廃のうちに捨て置く。

これは刈り込まれることもなく、耕されることもない。

こうして茨とおどろが生い茂るが、

諸々の雲にわたしは命じ、この上に雨を降らせることはしない。

 

 まことに万軍のャハウェの葡萄園とはイスラエルの家のこと、

ユダの人こそ、彼ャハウェが愛でたもう苗木。

ヤハウェはこれに義を待ち望まれたのに、見よ、血。

方正を待ち望まれたのに、見よ、矯正。

 

 

 

 禍いなる者ども

 

 禍だ、

家に家を建て連ねる者ども。

彼等は畑に畑を寄せ合わせ、もはや地所がない。

あなた達はその地のうちに、

自分達だけで住もうとするのだ。

 

万軍のャハウェが我が耳に語る。

「必ずや多くの家々は荒廃に帰し、

大きな美しい家にも住む者がいなくなる。

まことに、10ッェメドの葡萄園が産するのがたったの1バテ、

1ホメルの種が産するのがたったの1エパ」と。

 

 禍いだ、

朝早く起きて強い酒を追い求め、

夜更かしして葡萄園に溺れる者ども。

彼等の酒宴には琴と竪琴、手鼓(てづつみ)と縦笛、

そして葡萄酒がある。

ャハウェの業を彼等は顧みず、

その手の成されたことを見ない。

 

 それゆえ我が民は知らないまま捕え移される。

その貴族は飢えた者となり、

またその民衆は渇きのため干からびる。

それゆえ黄泉は彼女の喉を広げ、

(※エルサレムの町を指している)

彼女の口を限りなく開ける。

彼女の栄華、彼女のざわめき、また彼女のどよめきは、

彼女のうちで歓声を上げる者ともども、

黄泉へと落ちて行く。

 

 こうして人間は低くされ、人は卑しくされる。

また驕った者どもの目は卑しくされる。

しかし万軍のャハウェは公正をおいて高くされ、

聖なる神は正義において聖とせられる。

そして子羊達は自分の牧場にいるように草を食べ、

肥えた家畜達が廃墟に住んで食を得る。

 

 禍だ、

偽りという縄で咎を、綱で車を引くように

罪を引きずっている者ども。

こう言う者ども、

「彼の成すところを急き立てて早く来たらせよ、

我等が見るために。

イスラエルの聖なる方の計画を近づかせよ、

我等も知りたいものだ。」

 

 禍だ、

悪を善と、善を悪と言う者ども

闇を光、光を闇とする者ども

苦さを甘さ、甘さを苦さとする者ども。

 

 禍だ、

己の目には知恵ある者ども

己の顔の前では悟りある者ども。

 

 禍だ、

葡萄酒を飲むことにかけては勇者ども

強い酒を混ぜ合わせることにかけては剛の者ども

悪人を賄賂ゆえに義(ただ)しいとする者ども。

彼等は義人達の義を遠ざける。

 

 それゆえ藁(わら)を火の舌で食い尽くし、

枯草を炎がなめ尽くすように

彼等の根は腐り、

彼等の花は塵のように飛び散る。

まことに、彼等は万軍のャハウェの律法を厭(いと)い、

イスラエルの聖なる方の言葉を却(しりぞ)けたからである。

 

 それゆえに、ャハウェの怒りはその民に向かって燃え、

ャハウェは、その手を伸ばしてこれを打ちたもうた。

山々は震え、彼等の屍は通りの真中で汚物のようになった。

それにも拘わらずャハウェの怒りは止まず、

尚もその手は伸ばされている。

 

 彼ャハウェは、遠くの国々に向かって旗を掲げ、

口笛を吹いて地の果てからこれを呼び寄せる。

 (※アッシリアのこと)

 

 すると見よ、それは急いで走ってくる。

その中には疲れる者もなく、また躓く者もない。

それはまどろまず、また眠らない。

その腰の帯は解けず、またその履物の紐は切れない。

その諸々の矢は研ぎ澄まされ、その総ての弓は張られ、

その馬の蹄(ひづめ)は火打石のごとく、

その車ははやてのように見える。

それの咆哮(ほうこう)は雄獅子に似、

それは若獅子のように吠えたけり、唸り、そして獲物を捕らえる。

逃がそうにも、逃亡させる者がいない。

 

 その日には、それが彼に唸り声をあげること、

海のどよめきに似て、地を見るに見よ、

闇と苦悩、光は黒雲の中で闇となる。

 

 

 

 【第6章】

 

 

 召 命

 

 ウジヤ王逝去の年(※BC736年頃)

私は、主が高くそびえる玉座に座し、その裳裾(もすそ)が神殿いっぱいに広がっているのを目の当たりにした。

セラフィムが主の上方から飛び立っていた。それらはそれぞれ6つの翼を持っていたが、その中の2つをもって顔を覆い、2つをもって両足を覆い、2つをもって飛んでいたのである。

 

 それが互いに呼び交わして言うには、

 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍のャハウェ、その栄光は全地に満つ。」と。

 その呼び声のために、敷居の基は揺り動き、建物は煙で満たされた。

 

 私は言った。

「ああ、忌むべきかな、私は。まことにもう破滅だ。

まことに私は穢れた唇の者で、穢れた唇の民の中に私は住んでいる。

しかも万軍のャハウェなる王を、私の目は両(ふた)つながらにして見てしまった。」

 

 すると私の所へ、セラフィムの一人が飛んで来た。その手には熱く焼けた石があったが、それは祭壇の上から火箸で取って来たものである。

 

 セラフィムはそれで私の口に触れて言った。

 「見よ、これがお前の口に触れた。取り除かれた、お前の咎は。

お前の罪は覆い隠された。」

 

 時に私は主の語られる声を聞いた。

 「誰をわたしは遣わそうか。誰がわたしの為に行くか。」と。

 

 そこで私は答えた。

「はい、私がここにおります。私を遣わして下さい。」

 

 すると言われた。

 「行け、そしてこの民に語れ。

『お前達、繰り返し聞け、だが理解してはならない。

お前達、繰り返し見よ、だが認識してはならない。』と。

肥え鈍らせよ、この民の心を、

彼の耳を重くし、彼の目を閉ざせ。

彼が彼の目で見、彼の耳で聞き、

彼の心で理解して、立ち帰って癒されることのないためである。」

 

 そこで私は尋ねた。

「主よ、いつまで。」

 

 答えて言われるには、

「荒れ果てて、町々に住む者なく、家々に人はなく、

その地が荒れ果て荒廃に帰し、ャハウェが人を遠くへ移し、

その地の中に見捨てられた場所がいや増すまで。

その中にまだ10分の1が残るが、これまた帰するところ、

テレビンの木や樫の木のように、食い荒らされることとなる。

しかし、テレビンの木は切り倒されて、

切り株はそれらにおいて聖なる子孫であるが、その切り株を残す。」

 

 

 

 【第7章】

 

 

 シリア・エフライム戦争とインマヌエル預言

 

 ウジヤの子、ヨタムの子であるユダの王アハズの時代に、アラムの王レチンと、レマリヤの子であるイスラエルの王ぺカとが、エルサレムに上って来て、これに戦いを仕掛けたが、これを打ち負かすことが出来なかった。

時にダビデの家に知らせがあり、アラムがエフライムに結集したという。そこで王の心とその民の心は、林の木が風に揺れ動くように動揺した。

 

 

◆補足文

(✤解説より、年代については諸説ありますが、ウジヤ王の逝去はBC736年と推定されます。彼は晩年病に倒れ、759年以降息子のヨタムが摂政の地位にありました。それを受け継いだアハズの治世は744年~729年。以下のいわゆるシリア・エフライム戦争が起こったのは733年です。当時、強大となったアッシリアの勢力に対抗するためにレチンとぺカは反アッシリア同盟を結び、アハズと北イスラエルは南ユダを攻撃しました。アラムはダマスコを首都とするシリアの国であり、サマリアを首都とするイスラエルの中心地はエフライムなので、史家はこれをシリア・エフライム戦争と呼びます。なおアハズはアッシリア王の助けを求め、アッシリアはアラムを滅ぼし、イスラエルにも破壊的打撃を与える結果となりました。)

 

 そこでャハウェがイザヤに言われた。

 「あなたとあなたの子シェアル・ヤシャブは、布さらしの野に向かう大路に沿った、上の池の水道の端でアハズに会うために、出掛けなさい。そして彼に言いなさい。

『心して、平穏であれ。恐れてはならないし、また心を弱くしてはならない。

これら2切れの木っ端のくすぶった燃えさしに等しい、レチンすなわちアラムとレマリヤの子との、烈々たる怒りに対して。

確かに、アラムがエフライムすなわちレマリヤの子と共に、あなたに向かって悪事を企てて言うには、「我等はユダに上って、これを威嚇し、これを攻略して、我等のものとし、タベアルの子をその中に立てて王としよう。」と。

 

 だが主ャハウェがこう言われる。

「そのことは起こらない、そのことは成らない。

まことにアラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレチン。

65年のうちに、エフライムは打ち砕かれて民ではなくなる。

エフライムの頭はサマリアサマリアの頭はレマリヤの子。

あなた達が信頼しないなら、まことにあなた達も信頼されない。」と。

 

 ャハウェはアハズにさらに語って言われた。

「あなたの神ャハウェからの徴を求めよ。

あるいは黄泉の底に、あるいは上の高みに。」

 

 するとアハズが言うには、

「私は求めません。。私はャハウェを試みることはしません。」

 

 そこで彼(イザヤ)は言った。

「さあ、聞きなさい、ダビデの家よ。

 あなた達にとって人々を煩わせるのは小さいことだが、まことにあなた達は私の神をも煩わせるのか。それゆえ、主自らがあなた達に徴をお与えになる。

見よ、若い女が身ごもり、男の子を産み、その名をインマヌエルと名づけるであろう。

この子は、悪を捨て、善を選ぶことを知る頃には、凝乳と蜂蜜を食べることが出来る。

まことに、この少年が悪を捨て善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れている2人の王の地は捨てられる。ャハウェはあなたとあなたの民とあなたの父の家には、エフライムがユダから離れた日以後臨んだことのない日々を、アッシリアの王を、臨ませるであろう。

 

 

 ◆補足文

(✽解説より、ユダは結局、2人の王からは救われても、その後アッシリアの王の来襲を受けてしまいます。✱インマヌエルは、救済の徴(解放の徴)であり預言です。アッシリア来寇による審判の預言とのつなぎの一句であり、イザヤが現実離れしたユートピア的な夢想家で、神に拠り頼めば全て良くなると楽観していたのではないことを証しています。)

 

 

 

 アッシリアの来寇

 

 その日になると、

ャハウェは口笛を吹いて、エジプトの河々の果てにいる毒蠅(どくばえ)、アッシリアの地にいる蜂を呼び寄せる。

すると、それらはこぞってやって来て、狭い谷間、岩山の裂け目、総ての茨の茂み、総ての牧場に留まる。

 

 その日、

主は、河の彼方で雇った剃刀をもって、すなわちアッシリアの王をもって、頭と足の毛とを剃り、また髯を落とす。

 

 その日になると、

一人の人が群のうちから1頭の雌牛と2匹の羊を所有する。

産する乳が豊富なので、人は凝乳を食べるようになる。

まことに、この地に残された者は皆、凝乳と蜂蜜を食べることが出来る。

 

 その日になると、

銀千枚に値する葡萄の木千本のあった総ての場所が、

茨とおどろに覆われることとなる。弓と矢を持って人はその場所に赴く。

まことに、その地の総てが、茨とおどろになるからだ。

くわで耕された総ての山々にも、あなたはもはや立ち入らない。

茨とおどろに対する恐れのためだ。

そこは雄牛が放たれ、山羊が踏み荒らす所となる。

 

 

 

『イザヤ書』2.

イザヤ書

 

 

 

【第2章】

 

 第二の表題

 

 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについてた見た言葉。

 

 終わりの日々の平安

 

 終わりの日々に、ャハウェの家の山は、

諸々の山の頂に堅く立ち、諸々の峰よりも尚高くそびえ、

国々はこぞってそこへと流れて来る。

多くの民が来て言う、

「さあ、上ろう、ャハウェの山に、ヤコブの神の家へ。

ャハウェは我等に彼の諸々の道を教えたもう。

そして我等は彼の諸々の途(みち)に歩むでろう。

まことに、シオンから教えが、

ャハウェの言葉はエルサレムから出る」と。

 

 ャハウェは国々の間を裁き、多くの民に判決を下す。

彼等はその剣を鋤(すき)に、その槍を鎌に打ち変える。

国は国に向かって剣を上げず、戦いについて二度と学ぶことはしない。

 

 ヤコブの家よ、

我等もャハウェの光のうちを歩もうではないか。

 

 

 

 高ぶる者は低くされる

 

 まことにあなたは、

あなたの民、ヤコブの家を捨てられました。

彼等がペリシテ人達のように、東方からの、しかも卜者(ぼくしゃ)達で満ち、

他所者(よそもの)の子等で溢れているからです。

 

(★魔術や占星術をもたらした外国からの商人を指すか、あるいは忌避すべき異教婚の子等を指しています。)

 

 

 その地は金や銀で満ち、その財宝には限りがない。

またその地は馬で満ち、その戦車には限りがない。

その地は空しい神々で満ち、彼等はその手の業、

その指で作ったものを拝んでいる。

こうして人間は低くされ、人は卑しくされます。

どうか彼等を耐え忍ばれませんように。

 

(✽偶像は、人間の造り物であるので、真の神ではないという理由から、しばしば預言者の嘲笑の的とされています。)

 

 

 岩の中に入り、塵の中に隠れよ、

ャハウェの畏るべき御顔と、その威光の輝きを避けて。

人間のおごった目は卑しくされ、人々の高ぶりも低くされ、

その日には、ャハウェがただ独り高く上げられるであろう。

まことに、万軍のャハウェの日は、総ておごり高ぶる者の上に、

総て頭の高い者の上に臨んで、これを卑しくする。

 

 また総ての高くそびえるレバノン杉の木の上に、

総てのバシャンの樫の木の上に、

総ての高い山々の上に、

総てのそびえる峰々の上に、

総てのそそり立つ櫓(やぐら)の上に、

総ての堅固な城壁の上に、

総てのタルシシシュの船の上に、

総ての豪奢な船の上にまで臨む。

 

 人間のおごりは低くされ、人々の高ぶりは卑しくされ、

その日には、ャハウェがただ独り高く上げられるであろう。

 

 かくて空しい神々は消え失せる。

岩々の穴や塵の隙間に入れ、ャハウェの畏るべき御顔と、

その威光の輝きを避けて。

 

 ャハウェが立って地を懲らしめておられるのだ。

その日、人々は拝むために造った銀製の空しい神々、

金星の空しい神々を、

もぐらやこうもりに投げ与え、

岩々の狭間や巌(いわお)の裂け目に入り、

ャハウェの畏るべき御顔と、その威光の輝きを避けるだろう。

 

  ャハウェが立って地を懲らしめておられるのだ。

鼻で息をするだけの人間などは、捨て置くがいい。

まことにそんな者など、

どこに値打ちがあるだろうか。

 

 

 

 

【第3章】

 

 

 指導者達の混乱

 

 まことに見よ、

主なる万軍のャハウェは、エルサレムとユダから

頼みと支えを取り除かれる。

すなわち、勇士と戦士を、

裁判官と預言者、占い者と長老を、

50人隊の司と身分の高い者を、議官と熟練した職人たちを、

また分別をもってまじないをする者を。

 

 わたしは若者達を彼等の司とし、無頼漢達が彼等を治める。

民は互いに仲間同士で虐げあい、若者が年寄りに向かって、

卑賎(ひせん)な者が高貴な者に向かって、高ぶる。

 

 まことに人は、自分の父の家で自分の兄弟を捕まえ、

「晴れ着を持っているじゃないか、じゃあ俺達の首領となってくれ、

この没落をお前の手で救ってくれ。」と言う。

その日彼は声を荒げて言う、

「俺は医者なんかになるつもりはない。俺の家にはパンもないし、晴れ着だってない。

俺を民の首領などにしないでくれ。」と。

 

 まことにエルサレムは躓き、ユダは倒れた。

まことに彼等の舌と行いとは、ャハウェに敵するもの、

彼の栄光の目に背く。

 

 彼等の顔つきがその内面を証言し、

彼等は自分達の罪をソドムのように露わにして、隠そうともしなかった。

ああ、彼等に嘆きあれ、

まことに彼等はその悪の報いを受ける。

 

 あなた達は言え、義しい者はまことに幸いだ、と。

まことにその行いの実を彼等は食するからだ。

ああ、悪い者に災いあれ、

まことにその手の報いが彼等に降りかかるであろう。

 

 わが民、これを苦しめるのはごろつき、

また女どもがこれを治める。

わが民よ、あなたの指導者達は迷わす者であり、

彼等があなたの歩む道を乱すのだ。

ャハウェは咎めるために立ち上がり、諸々の民の審判に出て立つ。

 

 ャハウェはその民の長老達や司達と共に裁きの場に入る。

「お前達は葡萄園を食い荒らし、お前達の家には貧しい者からの略奪品が置いてある。

一体何故お前達はわが民を踏み砕き、貧しい者達の顔をつぶすのだ。」

わが主なる万軍のャハウェの御告げ。

 

 

 

 シオンの娘等の驕慢(きょうまん)と没落

 

 ャハウェが言われた。

「まことにシオンの娘等はおごり、首を伸ばして色目を使って歩み、

小股で歩き回って、脚の飾りを慣らしているので、それ故に、

主のシオンの娘等の脳天をかさぶたで覆い、ャハウェは彼女等の額をむき出しにする。」

その日、主は飾り物を取り除かれる、

すなわち、脚の飾り、日輪型の髪飾り、三日月形の飾り、

耳輪、腕輪、顔覆い、頭の飾り、足首の飾り、飾り帯に香袋、お守り、

指輪、鼻輪、礼服、外套、羽織もの、手提げ、手鏡、亜麻布の服、ターバン、ショールなどである。

 

◆補足文

(✤これらの女性の装飾品の数々は、ほとんどの年頃の女性なら持っている物と言えるのではないでしょうか。そして、世のファッション業界がこれらの流行を作りだし、飽きさせないように身に着けさせていることも私達は知っています。日輪型の髪飾りや、三日月形の飾りなどは確かに昔からの定番ですし、小物類、特にバッグ等も昔からの定番の形というのがあります。

この第3章で、イザヤは外見や身を飾ることにばかり夢中になる女性、つまり自己愛が強く自惚れて、男性の気を引こうと色目を使う女性達を神は嫌っておられるのだということを教えてくれています。つまりこの世が、特にエンターテインメント業界などが神に嫌われるようなことばかりを推進しているということが理解できますね。)

 

 その結果生ずるのは、良い香りの代わりに腐臭、

帯の代わりに荒縄、編んだ髪の代わりに禿げ頭、晴れ着の代わりに粗布の腰巻。

まことに美しい物の代わりに。

あなたの男達は剣に、あなたの勇士達は戦に倒れる。

彼女の諸々の門は嘆き、悲しみ、彼女はさびれ果てて地に坐す。

 

 

 

 

【第4章】

 

 

 その日には7人の女達が1人の男にすがって言う、

「私共は自分達のパンを食べ、自分達の晴れ着を着ます。ただあなたのお名前が私共の上に呼ばれますように、私共の汚辱を取り除いて下さいませ。」と。

 

 

 

 ャハウェの若枝

 

 その日にはャハウェの若枝は誉れとなり、栄光となる。

またその地の実はイスラエルの逃れた者の誇りとなり、栄誉となる。

シオンに残された者、エルサレムで生き残った者は、聖と言われるようになる。

 

みなエルサレムにあって生命の書に記された者達である。

主が公正の霊風と焼き尽くす霊風とをもって、

シオンの娘等の穢れを洗い、エルサレムの血をその内からすすがれる時、

ャハウェはシオンの山の総ての場所とその集いの上に、

昼は雲を、夜は煙と火炎の輝きとを創造される。

 まことに、総ての栄光の上に覆いが出来、

仮小屋が出来て、日陰となって暑さを防ぎ、

避け所となり、隠れ家となって、嵐と雨から守ることとなる。

 

 

◆補足文

(解説文より、神の審判は、焼き尽くす火をもって表象されることが多い。出エジプト以来、昼は雲が、夜は燃える火が、神の臨在と庇護を象徴しました。)

 

 

 

『イザヤ書』1.

 【イザヤ書

 

 

 旧約聖書Ⅶ・イザヤ書』関根 清三訳(岩波書店)より、イザヤ書を紹介していきたいと思います。この『イザヤ書』は、私が聖書を初めて読んだ時に特に心惹かれた預言書です。そして、旧約聖書の中でも3大預言書、イザヤ・エレミヤ・エゼキエルの書の順番に書かれた預言書の中でも、高い位置づけをされている正典でもあります。

なぜなら、時代的にも一番古く、量的にも最も大きい書であり、また、メシア預言を中心とするその予言の質も理由の一つに挙げられています。

また、新約聖書でも『イザヤ書』は、どの預言書よりも多く引用されているのです。

 

 

 

 ■ イザヤの時代背景

 

 『イザヤ書』の構成については、全66章からなっており、研究者達の発表では、イザヤという一人の人物が全て書いたものではないことになっています。

少なくとも、40章から55章まで、56章から66章は別の預言者によるものであると云われています。しかし、残念ながら作者名は不明です。このため、「第一イザヤ」「第ニイザヤ」「第三イザヤ」と呼ぶことは、1829年のB・ドゥームの註解以来、学会の定説であり、一般慣行となっているようです。しかし、なぜ全てをまとめて『イザヤ書』としたのかは、このドゥーム以来の宿題であり、未だ解答はないようです。

 

 「第一イザヤ」は、預言者イザヤ本人の著書と認められています。(他の箇所においても彼の筆であると認められている部分もあるようです。)

イザヤはBC8世紀後半に活動した預言者です。イザヤの預言活動はユダの王「ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」に及んでいます。このうち、ウジヤ王逝去の年に神より預言者としての召命を受けました。

ヒゼキヤ王晩年のアッシリア来寇(らいこう)により後の預言はないようです。したがって彼の活動期間は約40年間といわれています。そして活動場所としては、ダビデ以来王国の首都であり、ソロモン以来神殿の所在地であったエルサレムと、それを囲む南王国ユダでした。

 

 この時代のユダ王国は、ウジヤ、ヨタム両王のもとで隆盛を極めていました。しかし、外敵の難が起こり、次第に民心に動揺が広がりはじめます。その外敵とは残忍な征服者として当時オリエント全域に脅威を与えていたアッシリアでした。

 

 ティグラト・ピレセル3世率いるアッシリアは、BC743年以降シリア・パレスティナへの遠征を繰り返し、これを侵略して貢物を取り立てていました。これに対してこの地方の小国は結束して反アッシリアの同盟を結ぼうとしました。北王国イスラエルの王ぺカや、アラムの王レチンは、そこで指導的役割を果たし、南王国ユダ王のアハズ(BC744ー729)にも同盟に加わることを要請しました。しかし、アハズはこれを拒んだために両王はユダに戦いを仕掛けたのでした。

 

 王アハズはイザヤの反対にも拘わらずアッシリアに援助を求めて助かります。

アラムは732年に、また一旦もちこたえたイスラエルも722年にはアッシリアに滅ぼされてしまいました。(イザヤ書7章~9章7節以下、17章1以下等の叙述)

こうして、アハズの政策は成功したかのように映り、イザヤはアハズの存命中は隠退を余儀なくされてしまいます。

 

 イザヤは、ユダの王国は対外的な脅威に対して、強国の傘下に降ることなく、ただ神ヤハウェにのみ拠り頼むことを一貫して訴えていたのです。

アハズの死後、ヒゼキヤの治世(BC728ー700)にイザヤは復帰を果たします。

しかし、国の危機は幾度となく再び訪れます。

BC710年に、ペリシテ諸都市を中心とする反アッシリア運動において、アッシリアはシャルマネセル5世の時代(BC726-722)を経てサルゴン2世の治世(BC721-705)に代わっていました。

このサルゴン2世に対して、アシュドドをはじめとするペリシテの諸都市が、エジプトのエチオピア人シャバカによる新しい第25王朝の支援を受けて反乱を起こしたのです。この反乱にユダも参加を求められ、イザヤは18章でこれに希望を抱いていますが、最終的には20章にあるように反対し、この時若いヒゼキヤはイザヤの助言に従いました。これは、サルゴンが勝利を治め、ヒゼキヤにとって、イザヤの助言は功を奏します。

ところが、アッシリアがBC704年に、センナケリブの治世に代わった時、ヒゼキヤがバビロニアのメロダク・バルアダン2世と共謀して反乱を起こします。

ここでもイザヤは反対の助言を王に伝えますが、ヒゼキヤは聞かず、彼等の起こした反乱は703年に挫折してしまうのです。

 

 ヒゼキヤは今度はエジプトのシャバカに助けを求めます。このエジプトの同盟にもイザヤは反対をします。(30章)

結果、アッシリアは反アッシリアの動きを制するために、BC701年にセンナケリブはユダに来寇し、ユダは破滅に瀕する結果を被ることになったのです。

 

 イザヤ書においてはこのアッシリアとの戦いにおいてユダが奇蹟的な勝利をもたらした場面も描かれています。これは神ヤハウェに拠り頼んだことによる、普通では絶対あり得ない勝利でした。(37章36-37)

 

 

 

……と、ここまででイザヤ書の歴史背景を短く説明しました。

 

ここからは、第一イザヤ書から、出来うる限り、紹介させていただきますね。

 

 

 

 

  イザヤ書

 

 

   表 題

 

 【第1章】

 

 

 アモッの子イザヤが見たもの。これを彼は、ユダとエルサレムについて、ユダの王達、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たのである。

 

 

  罪の裁きと残りの者

(BC701年のアッシリアの来寇によって破滅的状況にあるユダの国に向けてイザヤの最期の預言。)

 

 天よ聞け、地も耳傾けよ。

まことにャハウェが語られる、

「子等をわたしは育て養った。だが彼等はわたしに背いた。

牛はその飼い主を、ろばはその主人の飼い葉桶を知っている。

だがイスラエルは知らず、わが民は悟らない。」

 

 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民、

悪を重ねる者共の子孫、堕落の果ての子等。

彼等はャハウェを捨て、イスラエルの聖なる力をうとんじ、

背を向けて離反した。

なぜお前達は、尚も打たれようとするのか、

背きを重ねて。

 

 頭は余す所なく病み、心残す所もなく疲れ果てている。

足の裏から頭まで健やかなる所とてなく、

傷と鞭の跡、また生々しい打ち傷。

それらは膿を絞り出されることもなく、包まれることもなく、

また油で和らげられることもない。

 

 お前達の土地は荒廃し、お前達の町々は火で焼かれ、

そしてお前達の眼前の、お前達の畑はと言えば、

異邦人達が食い荒らし、異邦人どもの壊滅の時のように荒廃している。

 

しかし娘シオンは残された、

葡萄園の小屋のように、瓜畑の番小屋のように、

包囲された町のように。

 

 もしも万軍のャハウェが我等のために少しでも残りの者を残さなかったら、

我等はソドムのようになり、ゴモラと等しくなっていたであろう。

 

 

 

 緋のような罪も雪のように白く

 

 ャハウェの言葉を聞け、ソドムの司達よ、

我等の神の教えに耳傾けよ、ゴモラの民よ。

「お前達の多くの生贄はわたしにとって何になろうか。」

とャハウェは言われる。

 

「わたしは雄羊の全焼の供犠や、肥えた家畜の脂に飽きた。

雄牛、子羊、雄山羊などの血も喜びもしない。

お前達はわたしの顔を見にやってくるが、誰がこのことをお前達に求めたか、

わたしの庭を踏みつけろなどと。

 

 お前達は二度と空しい捧げ物を持って来てはならない。

犠牲を焼く煙、それはわが忌み嫌うもの、

新月祭と安息日、祝祭の集いなど、不義と聖なる集会など、

わたしは我慢ならない。

それらは私の重荷となり、わたしはそれらを負うに堪えない。

お前達が手を差し伸べてきても、

わたしはお前達から目をそらす。

 

 どんなに祈りを繰り返しても、わたしは決して聞きはしない。

お前達の手は血にまみれている。

身を洗い、清くなれ。

わたしの眼前からお前達の悪行を除き去れ。

 

悪いことを辞めよ。

善を習え。

公正を求め、虐げられた者を助けよ。

乞食のために正しい裁きをし、寡婦(やもめ)の訴えを取り上げよ。」

 

 

 「さあ、来たれ、我々は共に論じよう。」

とャハウェが言われる。

 

「たとえお前達の罪が緋のようでも、雪のように白くなる。

たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

もしお前達が進んで聞き従うなら、この地の良い物を食べることが出来よう。

しかし、もしお前達が拒み逆らうなら、剣に呑まれるであろう。」

まことのヤハウェの口が語られたのだ。

 

 

 

 娼婦と人殺しの都

 

 どうして娼婦になり下がったのか、貞節の都が。

そこには公正が満ち、義が宿っていたのに、

今は人殺しばかりだ。

お前の銀は金かすとなり、お前の上等な酒も水で割られている。

お前の高官達は頑なな反逆者、また盗人の仲間。

みな賄賂を好み、贈り物を追い求める。

 

 孤児の為に正しい裁きをすることもなく、

寡婦の訴えが彼等のもとに達することもない。

「それゆえに、」

と主なる万軍のャハウェ、イスラエルの力強き方の御告げ。

 

「ああ、わたしはわが敵に思いを晴らし、わが仇に復讐しよう。

そしてわたしは手を再びお前に向け、

お前の金かすを灰汁のように溶かし、お前の総ての浮きかすを除き去ろう。

こうしてわたしは再びお前の裁判官達を初めのように、

お前の議官達を昔のようにする。

 

 そうして後、お前は義の町、貞節の都と呼ばれるだろう。

シオンは公正によって、その中の立ち帰る者は正義によって、贖われる。

しかし背く者と罪人とは共に滅び失せ、

ャハウェを捨てる者は衰え果てる。

 

 まことに彼等はお前達の好んだ大樹によって辱めを受け、

お前達はお前達の選んだ園によって恥を受けるであろう。

 

◆補足文

(※カナンの豊饒の祭儀では大樹のもとで淫らな行為がなされ、園ではエジプトやフェ二キアの神々が崇拝されました。ユダの支配階級はこうした異教徒崇拝に走った当然の報いを受けるのです。実際の話、現代のイルミなどの支配階級も全く同じ宗教を行い、崇拝行為をやっております。カナン他等のサタン崇拝の詳細は別口でまたお伝えするつもりです。)

 

 

 まことにお前達は葉の枯れた大樹のように、水のない園のようになるであろう。

そして強い者も麻屑(あさくず)と、その行為は火花と、成って、

二つながらにして共に燃え、これを消す者とてないであろう。

 

 

 

アッシリアの都市「ニネヴェ」の話

 

1,聖書の中に出てくるアッシリアの都市「ニネヴェ」

 

 

 前回からの続きとして、ニムルドに関しては、まだまだ説明があります。

説明が重複してしまいますが、<創世記>8:12より、ニムルドは神「ャハウェ」の前に狩人の勇士とされ、メソポタミアのバベル(バビロン)、エレク(ウルク)、アッカドの諸都市を支配し、更に北のカラハ(現在のニムルド・※ニムルド遺跡があります。アシュルナシルパル2世により王都・軍事上の首都だった。)、ニネヴェなどの都市を建てたとされています。そしてアッシリアは、ユダおよびイスラエルの敵として、何度も聖書に言及されているのです。

 

 しかし、このアッシリアの地に最初に居住したのは、セムの子アシュルでした。そのアシュルの名前から。アッシリアの地名となったのです。ところが、この地は早くから外敵の侵入を受け、つまりハムの孫である二ムロドによって征服されてしまったのです。いずれにせよ、アッシリアと首都ニネヴェが、バビロンから発達したということは、歴史的な事実となっています。

 

 

 このニネヴェは帝国最初の首都であり、新アッシリア帝国の王センナケリブエルサレムと激しく敵対し、聖書中に13回も名前が挙げられている人物。)によって壮麗に建築されました。センナケリブは帝国の黄金期を築いた人物として有名です。またニネヴェにはアシュルバニパルの図書館もあります。

 

 しかし、この美しいニネヴェは聖書中には「災いの町」として何度も出てきており、有名な預言者イザヤや、ミカ、ヨナ、ゼパニア、ナホム、また、イエス使徒であるルカの書の中にもこの町の名前が出てくるのです。ちょっと、下記に順番に紹介します。

 

 

 <ミカ書>5:5では アッシリアは「ニムルドの国」と呼ばれています。

 <ミカ書>5:5

 「またこの都は平和とならねばならない。アッシリア人が私達の住まいの塔を踏みにじるその時、私達もこれに対して…そして彼等は正に剣を持ってアッシリアの地を二ムルドの地の入口を牧する。」

 

 

 

 <ヨナ書>においては、BC900年に預言者ヨナへ、神がニネヴェの住人の邪悪さにこの町を滅ぼすことを決め、それを告げ知らせるように命令しました。しかしこの時はニネヴェの人々の改心により回避させられます。

<ヨナ書>1:1

 そして、ヤハウェの言葉がアミタイの子ヨナに臨むようになって、こう言った。

「立って、大いなる都市ニネヴェに行き、彼等の悪がわたしの前に達したことを触れ告げよ。」

 

 

  <ゼパ二ヤ>2:13

 「また神はその手を北に伸ばして、アッシリアを滅ぼす。そしてニネヴェを荒れ果てた所、荒野のように水のない地域とする。…」

 

 

  <イザヤ>37:36

 こうしてヤハウェの使いが出て行って、アッシリアの陣営で185,000人を打ち殺した。人々が朝早く起きてみると、見よ、みな死体となっていた。

アッシリアの王、センナケリブは立ち去り、帰ってニネヴェに留まった。

 

 

 

◆補足文

 (ニムルド遺跡の宮殿壁面の浮彫には、ライオン狩りはアッシリアの王達の遊びであり、ニネヴェそのものを「ライオンの洞」と呼んでいたことがわかります。)

  

 

 

  <ルカ>11:29

 群集が寄り集まって来た時、イエスはこう言い始められた。

「この世代は邪悪な時代です。しかし、ヨナのしるし以外には、何のしるしも与えられないでしょう。ちょうどヨナがニネヴェに対するしるしとなったと同じように。人の子もこの世代に対するしるしとなるのです。

 

 

 

 

 2,ニネヴェは「流血の都」

 

 

 ニムルドが狩りを好み残忍であったように、彼の子孫(もしくはハム系の子孫)であるアッシリアの王達も基本的に軍事強国として、その残忍な性格と支配で他国から恐れられていました。

遺跡による浮彫の彫刻の示すところによると、ニネヴェはヘブライ人の預言者ナホムが言っているように「血を流す町」でした。

アッシリアの帝王の一人、アシュルナシルパルは、反逆した都市に対して行った処罰を次のように説明しています。

 

 アッシリアバビロニアの古代の記録』D・D・ラッケル著より

 

 「わたしは、彼の都市の城門の前に、それよりも高い柱を建てて、反乱を起こした首領達のすべての皮をはぎ、彼等の皮でその柱を覆った。ある者達をわたしはその柱の中に閉じ込めて、またある者達は柱の上で杭に突き刺した。また、反逆した王室の役人共の手足を切断した。彼等の中の多くの捕虜をわたしは火刑し、多くの者を生け捕りにした。わたしはある者達の手や指を切り取り、他の者達の鼻や耳や指を切り落とし、多くの者達の目をえぐり出した。わたしは生きた者達で一本の柱を作り上げ、頭でもう一本の柱、木の幹に縛り付けた。彼等の男児や女児達を火の中で焼いた。20人の男をわたしは生け捕りにして、彼の王宮の壁に埋め込んだ。彼等の戦士等を、わたしはユーフラテスの砂漠で、喉の渇きで死に絶えさせた。」

 

 

 他にも浮彫の示すところには、捕虜達は、鼻や唇に穴を空けられ、その穴に留金が取り付けられ、その留金に綱が結ばれて連れて行かれた様子などが描かれています。

彼等、歴代のアッシリアの王達はこうした残忍な虐殺行為を有利に働かせ、攻撃を仕掛けてくる者達に恐怖の念を覚えさせ、大抵の相手の抵抗力を萎えさせました。アッシリアの王達はこうしたやり方を自慢し、誇りとして後世に伝えていたのです。

 

 

 

 

 3,アッシリアの宗教

 

 

  アッシリアの宗教は、だいたいはバビロンから受け継いだものでした。

アッシリア人は、自分達の国家的な神アシュルを祀り、引き続きバビロンを宗教上の主要な中心地とみなしていました。(つまり、アッシリア人の宗教はバビロン人から受け継いだ宗教とあまり変わらないものだった。)

そして、アッシリアの王は、アシュルの大祭司も務めていました。

A・H・レヤードによって、アッシリアの王宮の廃墟で見つけられた印章は、アシュル神を3つの頭を持つ神として表しています。

3つ組の神に対する信仰は、アッシリア人の礼拝の顕著な特色でした。

 

 主要な3つ組の神は、天を表すアネル、人や獣や鳥の住む地域を表すベル、および陸上と地下の水を表すエアで構成されていました。

2番目の3つの組は、月神シン、太陽神シャマシュ、および嵐の神ラマンで構成されていました。もっとも、ラマンの場所を星の女王イシュタルが占めることも少なくなかったようです。

 

 次いで、5つの惑星を表す5体の神々がありました。

三位一体のグループを構成する神々について註解した、『ウンガ―聖書事典』には、これらの神々は時々、各々を順番に他に対する地位に引き上げるような言い回しで、別々に呼びかけられていると述べています。しかし、彼等の万神殿には他の無数の下級の神々が祭られており、その多くは守護神となっていました。

 

 センナケリブは、この都市の34にもなる神殿の名前を挙げています。

 

 これらの神々に関連して報じられていた宗教は精霊的な宗教でした。

つまり、アッシリア人は、あらゆる物体や自然現象は精霊によって生気を付与されていると信じていたのです。この宗教は、周囲の国々で広く行われていた自然崇拝とは特徴的には異なっており、戦争がその国家的な宗教の最も本質的な表現でした。つまり、戦争に出る時の歴代の王達は、戦争の勝利や願いを神々に祈り、勝てば神々を称えていました。

サルゴン王は、戦いの女神である「イシュタル」に祈願し、彼の軍隊は木製か、金属製の神の象徴物を棒に取り付けるなどし、神々の旗の後ろに従って進軍しました。

犠牲として捧げられた動物の肝臓や鳥の飛び方、惑星の位置などを調べ、確かめられた吉凶のしるしを重要視していました。戦いは国家の事業であるため、祭司達は絶えず戦争を(占術・霊媒によるなどして)扇動していました。

もっとも、祭司達の生活は主として征服を行って得た戦利品で支えられており、戦利品は他の人々に分けられる前に、決まって一定の割合で祭司達に分配されていたのです。

 

 

 

4,アッシリアの滅びは神によって定められていた。

 

 

 上記までに書かれている通り、アッシリアの邪悪さは、神によって滅ぼされることが定められていたようです。預言者ナホムは次のように預言しています。

 

 

 <ナホム書>2:1~

 

 散らす者があなたの顔の前に上って来た。防備を施した所の守りを固めよ。道を見張れ。腰を強くせよ。大いに力を増し加えよ。

ャハウェは必ず、イスラエルの誇りのように、ヤコブの誇りを集めるのである。奪い去る者達が彼等から奪い去ったからである。…

 

 神の力ある者達の盾は赤く染められている。その活力ある者達は深紅で装っている。神が備えをする日、その戦車は鉄の装備の火を伴う。ねずの木の槍はわなないた。

街路では戦車が狂ったように駆けめぐる。公共広場を右へ左へ突き進む。その様は松明のようである。それらは稲妻のように疾駆(しっく)する。

神はその威光ある者達を思い出される。彼等は歩きながらつまづく。彼等はその城壁に急ぐ。防柵をしっかり固めなければならない。河川の水門は必ず開けられ、宮殿もまさに崩れ落ちる。そしてことは定められた。……

 

 

 「立止まれ!あなた方は立ち止まれ!」

だが引き返す者はいない。あなた方は銀を強奪せよ。金を強奪せよ。整え置かれた物は限りないからである。あらゆる望ましい品々が大量にある。

 

 空虚と虚ろ、荒廃させられた都市!

そして心は溶け入り、膝はよろめき、激しい痛みがすべての腰にある。

彼等すべての顔は興奮のほてりをつのらせた。 

 

 ライオンの洞はどこなのか。ライオンはそこを歩き、中に入り、ライオンの子はそこにいる。これをおののかせる者はいない。

ライオンは自分の子等のために十分かき裂き、自分の雄ライオンのために絞め殺すのであった。また自分の穴を獲物で、その隠れ場を、かき裂いた動物で常に満たした。

 

 「見よ、わたしはあなたを攻める。」

 と万軍のヤハウェはお告げになる。

 

 「わたしは彼女の戦車を煙の中で焼き尽くす。また、あなたの鬣(たてがみ)のある若いライオンたちを剣がむさぼり食う。そしてわたしはあなたの獲物を地から断つ。あなたの使者達の声はもはや聞かれない。」

 

 

 この流血の都市は災いだ!彼女はただ欺きと強奪に満ちている。……

 

 馬上の騎手、剣の炎、槍の稲妻、打ち殺された多数の者、大量の死骸。

死体は果てしなく続く。彼等はその死体の中で幾度もつまづく。

これは、この売春婦のおびただしい売春行為のためである。それはあでやかさで魅惑する者、呪術の女王、その売春によって諸国民を、その呪術によって諸々の家族を罠に掛けている者である。

 

 

 「見よ、わたしはあなたを攻める。」

 と、万軍のャハウェはお告げになる。

 

「わたしはあなたのすそをあなたの顔に被せて、諸国民にあなたの裸を、諸々の王国にあなたの不名誉を見せさせる。また、わたしは嫌悪すべきものをあなたの上に投げ、あなたを卑しむべみ者とする。あなたを見せものとするのである。

そして全てあなたを見る者は、あなたから逃げ去って、必ずこう言うであろう。

 

『ニネヴェは奪い取られた!誰が彼女に同情を寄せるだろうか。』

 

……あなたも酔いしれる。隠されたものとなる。

あなたも敵を防ぐための砦を求めるであろう。

あなたの防備を施された所はみな、熟した初物を付けたイチジクの木のようである。

揺すられると、それは食らう者の口の中に落ちるのである。

 

……アッシリアの王よ、あなたの牧者達は眠りこけてしまった。

あなたの威光ある者達はその屋敷の中に留まっている。あなたの民は山々の上に散らされ、これを集め寄せる者はいない。

あなたに臨む大変災からの安らぎはない。

 

あなたに関する知らせを聞く者はみな、あなたに向かって必ず手を叩く。

なぜなら、あなたの悪を絶えず身に受けなかった者が誰がいるのだろうか。」

 

 

 

 と書かれているようにニネヴェの町、そしてアッシリアは滅ぼされたのでした。

 

 

シュメール文明や世界の歴史年代表と聖書の年代表の差 4.

1. 「世界は初め一つの言語だった。」

 

 

 シュメール言語の出自については謎だと言われているのですが、聖書の説明からすると、シュメール、メソポタミア一体を強力に支配下に置いた最初の人物としては、この二ムロド以外いないので、シュメール語自体は二ムロドに関係している語源になるかと思うのですが、洪水後の人類の始まりは、ノアの子孫達であるので、当然聖書の説明にあるように「世界は初め一つの言語だった。」というのは当たり前の話になります。

それと、「文字」についても、

ヨベル書』第4章で、エノクが人として初めて文字を書いたとしています。

 

 『ヨベル書』第4章

 

「地上に生をうけた人類の中で、ものを書く技術と知識と知恵を学んだのは彼をもってこう矢とする。彼は天のしるしをその月の順序にしたがって本に書きしるし、人類が一年の季節をそれぞれの月の順序にしたがって知ることが出来るようにした。…」

 

と書かれているので、ノアの生まれる以前から「文字」は存在していたことになりま す。

 

(※但し、シュメール人は魔術や占星術を盛んに行っていたことが伺えるので、堕天使や悪霊達と霊的な交信をしていたことが予想されます。何しろ二ムロドはサタン信仰の祖と言われていますから、シュメール人が発明した文字の「楔形文字」が、エノクが書いていた文字、つまり、後の子孫であるノアが書いていた文字とは違うものかもしれません。以下のエノク書には次のように書かれています。

 

 『エノク書』第69章

 

「1番目の者の名は、ィェクンと言い、すべての聖なるみ使い達を迷わせ、乾いた大地に連れ降し、人の娘等によって迷わせた者である。2番目は名をアスべエルと言い、聖なるみ使い達の子等に悪知恵を授け、人の娘等達の間で身を滅ぼすように迷わせた者である。…4番目はペネムと言い、この者は人の子等に苦みと甘みを見せ、また彼等の知恵の秘密をことごとく見せた。この者はまた墨と紙でものを書くことを人間に教え、それがために、永久に道を踏み外す者が多数にのぼり、今日に及んでいる。……」

 

 

 

 ともあれ、その一つだった文字と言語が別れるようになったのは、「バベルの塔」の事件からになるので、この時期が一体いつ頃に起きたのかを調べてみました。

 

 

 

 まず世界年代表のシュメール語の消失した年代は調べると、BC1830年でした。

この時代ではシュメール語は死語となっていたようです。

「シュメール」という呼称も実はアッカド語で、シュメール人は自分の国を「※キエンギ」と呼んでいました。

(※「キ」は大地、「エン」は主人という意味を表し、「ギ」は「葦」の絵文字から発達した楔形文字の意味は文明を表す「ギ(-ル)」とする説もあります。)

 

 しかし、この時代にまでになると、メソポタミア周辺の言語はセム語やハム語、アッカド語など、出て来ていますし、様々な民族も現れています。

ウイキペディアの説明でも、シュメール語の死語化については、軍事征服による虐殺や言語の強制化といった兆候は発見されていない。シュメール都市への移住者が速やかにシュメール化されたが、ある時期から比較的短期間にセム語系民族が大量に流入し、(別調べ:BC1894ー1595にセム語化する)

シュメール人が逆に吸収されたものと推測されている。と書かれています。

 

 シュメール人と古くから共存してきたアッカド人はというと、セム系語族で、アッカド語シュメール人が歴史舞台から姿を消した後も、アッカド語バビロニアから北方のアッシリアまで方言として拡散され、BC600年に新バビロニア帝国がアケメネス朝ペルシャに敗北するまで、丁度現代の英語のように国際語の一つとして通用していたと言います。

 

 ということで、語源の多様化から考えると、少なくとも、世界年代表においては、アッカド王朝が始まるBC 2334以前に「バベルの塔」が破壊されていないと成立しない話になります。

 

(また、元々、メソポタミア、シュメール地域にはセムやハムの一族が入り乱れて住んでいましたし、その近くにャぺテの一族もいました。これは、ノアがそれぞれにくじで与えた土地に住むように言い伝えていたのにも拘わらず、ハムの一族がそれを違反し、勝手に移り住むようになったためのようです。) 

 

 

 

 

2.「バベルの塔」が破壊された年代について

 

 

 前回は、セムから3代目に当たるシェラが生まれたのをBC2310年と仮定しましたが、他のキリスト教の年代表を見つけたので、それによればシェラの誕生はBC2333年生まれだったことが判りました。

残念ながら、二ムロドの誕生年は分かりませんでしたが、二ムロドはハムの6人の息子の並べ順から見ると最後なので、私が勝手に推察したBC2322年だとすれば、つまりシェラよりは11歳年下になります。

それほど予想年齢と違ってなかったのかな?などと思いつつ、勝手な推察年齢ですのでそこはあしからず。

 

 シェラの孫であるぺルグはBC2269年に生まれました。

 

ヨベル書』によると、「バベルの塔」は43年間かかって完成しているとなっているので、ぺルグが結婚して子供を授かった年齢は30歳なので、この時代に「バベルの塔」の事件が起きたことになります.

その根拠は、『ヨベル書』第10章に次のようにあるからです。

 

 

 ヨベル書』第10章

 

「第33ヨベルの第2年週の第1年にペルグは妻を迎えたが、その名はロムナと言い、シナル(※シュメール)の娘であった。彼女はその年週の第4年に彼に男児を産み、彼はその名をリウと呼んだ。

 

 彼(神)は言ったものである。

「見よ、人の子等はシナルの地に自分達の都市と塔を建てようというそのふとどきなはかりごとの故に邪悪になった。」

 

 彼等はアララテの地を去って東の方シナルへ移った。彼の時代に彼等は「これをつたって天に登ろう」と言って塔のある都市を建てた。こうして彼等は建設にかかった……

 43年間かかって建てた。

 

 我々の神、主は我々に言われた。

「見よ、一つの民、彼等が一旦ことを起こしたからには彼等に不可能ということは一つとてない。さて、降りて行って彼等の言語をかき乱し、互いに話が通じないようにしてやるか。また、各地の都市や民族の間に散らばらせて、裁きの日まで意図の一致をみることないようにしてやろう。」

 

 そこで主は彼等の言語を何もかもかき乱されたので、彼等は互いに話が通じなくなり、都市と塔の建設を中止した。この故に、神がここで人の子等のすべての言語をかき乱されたことから、シナルの全土は「バベル」と名付けられた。

また、そこから彼等は各々その言語、民族にしたがって彼等のすべての都市に分散していった。…

 第34ヨベルの第4年週の第1年のはじめに彼等はシナルの地から分散していった。

 

 

 

 

 つまり『ヨベル書』を参考に計算すると、ぺルグが74歳で、子供のリウが43歳の時に「バベルの塔」が建設されたことになります。そして、完全に完成に至る前に、神の怒りにあい、「バベルの塔」は崩壊しました。そこから、人類の言語はばらばらになり、各地に分散していったのです。そして、その年は第34ヨベルとあるので、計算してみると、約20年間かけて分散したことになります。

 

 ヨベル年数と、現代の共通した聖書年代グラフとはまた年代数が違っているのですが、ヨベル年数の期間部分を現代の聖書年代に合わせてみますと、BC2239年、ぺルグ30歳で計算して、「バベルの塔」の建設43年を足すとBC2196になります。

つまり、この時期に神が天より地上に降りて来て、崩壊させたということになります。

そこから、約20年間の間に、BC2176頃にばらばらになり各地に分散していったということになるようです。

 

 

 

 

3.ノアの洪水から「バベルの塔」までは何年? 

 

 

 次に、私の勝手な推察の年齢を充てると、この時二ムロドの年齢は「バベルの塔」を建て始めた年が推測の83歳で、43年後の126歳で神の怒りに遭って塔を崩壊させられたことになります。126歳というと、この時代の寿命は400年ほどありましたから、まだまだ青年期と言っていいのかもしれません。ジャスト400歳で亡くなったとしても、その後274年も生きていたことになるからです。

 

 ちなみに、シェラは433歳、BC1900年で亡くなっています。二ムロドがシェラの死亡した時期よりも早いか遅いかはわかりませんが、BC1900年代であるなら、世界年代表の古代バビロニア時代のBC2000年~1600年に入る時期となります。

 

 また、二ムロドは、死んだ後にも、その名が伝説的に語り継がれ、後には神格化されて、バビロンの守護神メロダク(マルドゥク)として崇められています。

ハムラビ王のBC 2000年頃には世界最高の神として祀られているのです。

 

 

 ここで、どういうわけか、この辺りは聖書の年代に近づいているような?

やはりシュメール紀元8000年~初期王朝時代の年代がかなり水増しされている??としか個人的には思えないですね。古代ほど歴史事実を変えて伝えてもバレないというか、操作しやすいでしょうから……。

(巨人の骨や恐竜の骨の年代測定も詐欺られていますから。これも最近バレてきています。)

 

 なにせ支配層の目的(世の教科書を作った連中)は、聖書記述、特に「旧約聖書」を単なるおとぎ話や神話として扱うようにしたいのです。それは、彼等の大好きな「ギリシャ神話」と同等のようにしたいのかもしれません。

(実に支配者層の多くのエリート達は「ギリシャ神話」にこだわりをもっているのです。)

そのくせ、二ムロドを英雄として二ムロドの神話『ギルガメシュ叙事詩』こそが、年代数として世界最古なのだから、後からモーセが書いた「洪水伝説」は「モーセがマネしたのだ」ということにしているのです。

最近は特にあちら側に付いた学者や専門家を使い、こうしたことをやたらと強調して宣伝し続けています。

これは、いわゆる洗脳(刷り込み)です。

「嘘は100回つけば本物になる」という、悪魔理論をやっているのです。

 

 

 

 少し話がそれましたが、ともかくこうして調べてみてみると、

BC2370年に「大洪水」が起きてから、「バベルの塔」の崩壊まで(あくまでも個人調べですが)174年しか経っていないことが判明しました。

これは聖書記述の歴史的事実としては、実にしっくりくる年代数だと改めて感じた次第です。

 

 

 

 

 

 

シュメール文明や世界の歴史年代表と聖書の年代表の差 3.

 二ムロドの誕生年代と322の関係性

 

 

 二ムロドはハムから数えて3代目にあたる人物で、クシュの息子です。前回にセムからその子孫の出生年代と寿命を参考にして、ハムの子孫も同じような年で子を産み、生きて死んだと仮定してみましたが、ハムはセムと違い性欲の強い人物だった(ノアの箱舟に40日間住んでいる間は神の命令により、性行為は禁止されていたのに、ハムはこれを破ってしまったといいます。)ようなので、セムの息子等が30代で第一子を生んだよりも早く、20代で第一子を設けた可能性もあります。

 

 これは、あくまでも推察の域なので分かりませんが、この世の支配層である悪魔崇拝の連中が数秘術にこだわり、とくに"322”という数字にこだわっているのに注目して、もしかしたら、二ムロドの出生年代は BC2322年 なのではないか?

 

と考えてみました。洪水が2370年で、セムの息子たちがそれぞれ30歳代で第一子を設けているので、単純に30×2で2310年に3代目のシェラハが生まれたと仮定するように、例えばこれを24×2という風に仮定してみると、2322年に3代目に当たる二ムロドが誕生しても不思議ではなくなります。

(だいたい悪魔崇拝者たちは、性的に奔放で淫らなことに終始執着しており、それが神への崇拝行為とみなしているのです。)

あくまでも私の推察の域ですが、以下にそう考える根拠があります。

 

 

 

 

 322(プリンプトン)とピタゴラス

 スカル・アンド・ボーン

 

 

 

 ● 322(プリンプトン)

 

 

 322は、※「バビロニア数学」について記された粘土板の最も有名なものの1つです。

バビロニア数学とは、古代メソポタミアのシュメールからバビロニアを中心とした数学全般を指す。)

 

 

 この呼び名の由来は、コロンビア大学にあるG・A・プリンプトンの収集の粘土板の322番目のものを指しています。

 

 およそ50万ものバビロニアの粘土板が19世紀のはじめより発掘されてきましたが、その内の数千のものが「数学の性質」についてのものでした。

 

 この粘土板はBC1822年~1784年に書かれたものとされ、4列15行の表にその時代の楔形文字の数字で記されています。これは60進法です。この60進法による「位取り記数法」を作り上げ、バビロニア数学の発展の基となりました。

BC2000年頃に「-」と「+」を表す記号によって60進法記数法が用いられるようになりました。これにより、星の運行計算などを行う天門学の分野が発展した他、分数の簡潔な表現も可能になり、少数の概念も存在しました。

 

 1951年にこの表の数がピタゴラス数をなしていることが指摘されました。しかし、2002年、アメリカ数学協会は、これを否定し、「322の作者はプロの数学者でもアマチュアでもない。作者は教師で、322は練習用の課題であると思われる。」としました。

 

 

 

 ● ピタゴラス

 

 

 ピタゴラス(BC582ー496)は古代ギリシャ数学者・哲学者であり、「サモスの賢人」と呼ばれた人物で、現代のギリシャ文化圏の東辺に位置する、現在のトルコ沿岸にあるイオンァ地方のケモス島で、宝石細工師の息子として生まれました。

近くの町には著名な数学者タレスが住んでいたようです。

 

 ピタゴラスは若い頃から、オリエント世界の各地に旅したり、エジプトの幾何学と宗教の密儀を学んでいました。

フェニキアでは算術と比率カルデア人からは天文学も学びました。

ポリピュリオスなどの伝記によれば、ピタゴラスは「ゾロアスター教司祭の下で学んだと言われています。更にイギリスやインドまで旅をしたとも言われています。

 

 また、ピタゴラスは、BC6世紀にあらゆる事象には、数が内在していること、そして宇宙のすべては人間の主観ではなく、数の法則に従うのであり、数学と計算によって解明できるという思想を確立しました。

 

 更に、彼はこの思想に基づいたピタゴラス教団」を立ち上げ、古代で最も著名な数学研究機関となりました。この教団(学派)は、10を完全な数と考え、10個の点を三角形の形にしたテトラクテュス(三角形のピラミッド)を紋章としていました。

 

 そして、この教団はあの有名な「ピタゴラスの定理」の発見を祝い、定理の重大性を記念して、100頭の牡牛を生贄に捧げて盛り上がったといいます。

ゾロアスター教の神に捧げたかどうかは分かりませんが、ゾロアスター教はニ言論の悪魔崇拝と言われており、もちろん「輪廻転生」も教えています。

 

 また、彼は数の調和や整合性を不都合なほど重視し、完全数友愛数を宗教的に崇拝していました。そのために教団の1人が無理数を発見した時、その存在を認めようとするかわりに発見者を死刑にしてしまうという残忍な行為を行っていました。

 

 

 

 ● スカル・アンド・ボーンズ「頭蓋骨と骨」

 

 

 スカル・アンド・ボーンズは、アメリカのィェール大学にある秘密結社です。

1832年にウイリアム・ハンティラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが設立しました。(表向きは)構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としています。

この会は、当初は「※エウロギアクラブ」という名前であったようです。

 

※エウロギアは、ギリシャ神話の弁舌の女神であり、デモステネスの死後パンテオンに祀られたといいます。)

 

 322の数字に関して彼等は意味付けをしていることでも知られています。

それは、デモステネス(古代ギリシャBC384-322没)の政治家・弁論家・アッティカ十大雄弁家の一人。アテナイの指導者としてギリシャ諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を展開したが叶わず、自殺へと追い込まれたとされる人物です。

このデモステネス没年であるBC322年を基本とし、会員ボーンズマンは、同年を紀元1年とするカレンダーを使うなどと言われています。

他にもいろいろな322の数字の意味づけの説があります。

 

 いずれにせよ、このスカル・アンド・ボーンズが様々な陰謀論の中でも有名な悪魔結社であることは有名なので、説明は必要ないかと思います。

 

 

 

 以上の理由で考察してみると、彼等支配層達が大昔から、悪魔崇拝の最大の起源となる二ムロドの誕生の地である、シュメール文明を今も絶賛し、その起源のあらゆることを伝統として受け継ぎ、「数秘術」、「記念」として彼の誕生日である12月25日にこだわってきているように、"322“の数字においても二ムロドの誕生年代であったために、これにこだわり続けているのではないでしょうか?

 

 

シュメール文明や世界の歴史年代表と聖書の年代表の差 2.

 ノアの大洪水から二ムロドまで

 

 

 前回の続きで、実際の現在の世界史年表と聖書の年代表との差について、聖書の年代表が絶対正しいと考えておりますので、単純に計算すると、世界最古の文明とされるシュメール年代表を代表に考えると、BC8000年の石器時代に始まるシュメールと、聖書のアダム創生からACまで4026年の差年は3974年になります。つまり、世界史は3974年分も歴史年代を水増しているのです。文字を最初に使ったとされるシュメール文明を元に歴史を紐解いているようですが、

『シュメール神話の世界』中央新書によれば、「(ノアの大洪水2370年)「大洪水以前」の5都市は文化の発展を示す神話時代であるが、洪水以降の各王朝はシュメル人にとっていわば「世界史」、つまり「史実」であり、現実であった。」

と書かれています。これはつまり言い換えるならば、

「洪水以前」はシュメル人にとって言えば、神話時代であるので各王朝は「世界史」でもなく「史実」でもないと認めていることになるのです。

 

 

 前回話したように、アダムからノアの洪水までは1656年です。その間にアダムからノアまでの家系図は9代になっています。人類で生き残ったのはノアの家族だけなので、洪水後からは、ノアの家族から人類は出発し、世界に広がったことになります。

 

 

 さて、1656年間に生きていたのはアダムの子孫だけではありませんでした。

(何回も同じ説明をしておりますが、)

この期間の途中から、天の子等、いわゆる人間の女を見てよこしまな欲望を抱いた「見張りの天使達」とその堕天使となった天使と結婚して子供を産んだ女達とその子供(巨人)達が生きていました。その巨人がいた時代はエノクの父ヤレドの時代には既に存在していました。

ヤレドはアダムから数えて5代目の長子になります。因みにアダムは930歳まで生きて死にました。そのヤレドから数えてノアまでは4代目になります。

巨人が世界中を破壊し、又人間達の心やその行動が全て悪に染まっているのを神がご覧になり、

 

<創世記6:7>

 ヤハウェは言った。「わたしは自ら創造した人を大地から拭い去ろう。人だけでなく獣までも、這う生き物までも、空の鳥までも。これらを造ったことが実に悔やまれる。」

 

と言われ、神による大洪水が起こされたのです。

しかし、ノアだけが神の恵みを得ることが出来て神による指導の下、箱舟を作り逃れることが出来たのです。

 

 

 ノアの時代の始まりはBC2370年ですから、ここからアダム時代の最初の頃のように、狩りや農耕に始まり、牧畜その他へと徐々に発展していきました。

ノアは現代の教える原始人のはじめではないので、洪水以前の時代のあらゆる教育や技術を身に着けていた文明を初めから持った人物でしたし、その息子たちに至っても同様でした。

ですから、短期間で農耕から始まった文明が発達して、人口の増加と共に発展し、都市化していったことも不思議なことではありません。だいたい元々頭のいい人間が、農耕から都市化に至るまで1000年も掛かるという方が不思議です。

実際、聖書でもアダムの最初の子供のカインの子孫について、

 

<創世記4:21>

 そして、その兄弟の名はユバルと言った。彼は、すべての竪琴と笛を扱う者の始祖となった。一方、チラの方もトバル・カインを産んだ。これは銅と鉄のあらゆる道具を鍛造(たんぞう)する者であった。

 

 と前回も書きましたが、現代のような文化の始祖があり、技術があったことが伺えます。

ということは、シュメール文明は人類最古の文明ではあるけれど、既に最初から高い技術を洪水以前の時代からノアが既に受け継いでいたので、巷で言う都市伝説の「シュメール人は初めから高い建築技術や計算術を知っていた。」というのは当たり前なのです。そして、聖書では

 

 

<創世記10:8>

 クシュはまた、二ムロドを設けた。彼は地上で最初の勇士となった。彼はヤハウェの前に狩猟の勇士となった。そこで、「ヤハウェの前に狩猟の勇士たること、二ムロドのごとく」と言われるのである。彼の王国のはじめは、※シンアルの地の※バベル、※エレク、アッカド、※カルネであった。その地から※アッシュルが出た。

彼はニネべ、レホボト・イル、カラハ、ニネべとカラハの間のレセンを建てた。

 

 

◆補足文

 ※シンアル=南メソポタミア

 ※バベル=バビロン

 ※エレク=ウルク・シュメール以来の都市

 ※カルネ=北シリア

 ※アッシュル=古代アッシリアの都市

 

 

 と書かれてあります。二ムロドはノアの3人の息子のハムの孫にあたります。

だいたいこの時代の寿命は長かったので、例えばアダムは930年生き、セトは920年、飛んでヤレドは862年生きて死にました。

ノアは600歳の時に洪水が起きて、950歳で死んでいます。しかしノア以降はだんだん寿命が縮んでいきます。ノアの息子は、セム、ハム、ャぺテの3人ですが、残念ながら聖書で年齢が書かれているのはセトの子孫だけです。(ノアの一番大切だった子供の家系のみ)

セムは600歳まで生きて死に、セムの息子アルパクシャドは438歳まで、その息子シェラハは433歳まで、次の息子エベルは464歳まで、その次は更に縮んでペルグは239歳、彼の息子レウも239歳で亡くなっています。

 

 このセムの家系の寿命を参考にしてみれば、ハムもセムの600歳に近いがそれより短い寿命、(罪深いと長生きできなかった可能性あり)そしてその息子クシュは438歳より短いか同じくらいの寿命、その息子である二ムロドも433歳より短いかそれと同じくらいの寿命だったと推察しています。

 

 あくまでも推察なので、本当のところは分かりませんが、ここで二ムロドが聖書でいう世界最初の勇士であり王だったというのであれば、シュメール文明の王名では誰に当たるのかということになります。

上記のように、シュメール、メソポタミア全土を支配したと考えられる二ムロドは、私の勝手な憶測ですが、やはりBC2800年頃に誕生したとされるキシュ第一王朝のギルガメッシュが二ムロドではないかと考えています。

 

 なぜなら、知っての通りギルガメッシュ王は、古代メソポタミアにおいて最も有名な英雄とされているということと、「ギルガメシュ叙事詩」の神話の内容からして、二ムロドの伝承を神話として美化して残したのであろうことが想像に難くないからです。

 

 

 

 

聖書の世界最初の王である二ムロドは、古代メソポタミアの英雄ギルガメッシュである可能性

 

 

 二ムロドが古代の英雄ギルガメッシュであると仮定してみるなら、この美化されたギルガメッシュの英雄武勇伝の神話「ギルガメシュ叙事詩」の中で、聖書と同じような世界の創造と大洪水の物語が展開されていたとしてもなんら不思議でも何でもない。ということになります。

 

 

 なぜなら、ノアの子孫である二ムロドが祖父であるハムから、子供の頃からノアの洪水伝説を聞いていないはずはないからです。

 

そして、世界中にある「洪水伝説」が似たり寄ったりであるのも、これも当然のことになります。ノアの子孫が世界中に増えて散らばっていったのだから、そのノアの時代に起きたこと、またはその人類の最初であるアダムからその時代までを、祖父から、父へ、その子供達へと伝承されていったはずならば似ていて当然ではないでしょうか?

ただ、一つだけ違うのは、宗教であり、その信仰の神は誰なのかということだけなのです。

 

ノアの子供達3人の子孫が、ノアと同じ神、つまり「ャハウェ」を信仰し続けたのか、それともャハウェ以外(創造主以外の)を神と崇めたかです。

 

分かり易いですよね。

聖書に書かれている通り、ハムの子孫はノアに呪われています。

ですから、ハムの子孫はヤハウェ信仰を辞めてしまっているのです。

ヤハウェ以外の神といえば、堕天使の頂点となっている「ルシフェル」と「見張りの天使達」とルシフェル側に付いたその他の天使達がそれにあたります。

数で言えば天上界の3分の1が堕天使となったと記されていますので、相当の数の神々といえます。

世界中にたくさんの神々の名前が存在して、その宗教が生まれるのも頷けます。

 

 ハムの子孫、そして残念ながらャぺテの子孫も後にヤハウェ以外の神、悪魔崇拝に加担していっていますから古代から戦争が絶えないのはもはや当たり前ですね。

 

 

 少し脱線してしまいましたが、[ノアの洪水伝説]がシュメールよりも後に書かれたという理由だけで、聖書の「大洪水」伝説が『ギルガメシュ叙事詩』のマネであるというのは全く間違った論述であると考えています。

 

もし、聖書の「ノアの洪水」と『ギルガメシュ叙事詩』の両方を読んだことがあるならどちらが歴史的史実に近いのかは直ぐに分かると思います。

『シュメル神話の世界』によれば、シュメールの「洪水伝説」は、神々が人間を滅ぼすために大洪水を引き起こすことを決定したのだけれど、なぜ神々は労働を肩代わりさせるために造った人間を滅ぼさなければならなかったのか?についての理由は直接語られていない。と述べています。実に辻褄の合わない物語の展開といえますね。

ところが、聖書の「ノアの洪水穿設」はストーリーの展開に矛盾がなく神の意図も明確です。

 

 そして更に、「ノアの箱舟」については実在した証拠もあるのです。

 

●参考動画

ドキュメンタリー「ノアの箱舟

驚くべき発見!「恐竜、ノアの箱舟」ロス・パターソン

 2本ともサンライズミニストリー配信

 

 

 トルコにあるアララト山頂に「ノアの箱舟」に間違いないとされる木片の構造物が発見されています。この構造物は、聖書の記述通りにぴったりと一致した形と寸法であることと、炭素年代測定においてもノアの時代と一致しており、ほぼ間違いないと言われているのです。

 

 

 因みに、洪水伝説の「創世記」を書いたのはモーセです。

 モーセは神による霊感によって執筆を始めました。そして、その「創世記」を書き終えた年代はBC1513年でした。

それから、「出エジプトレビ記」は1512年

民数記申命記」は1473年に書き終えられた事が判っています。

この時代のシュメールではバビロン第一王朝王滅亡後(BC1595年後)からカッシート朝バビロニアメソポタミア北部に中期アッシリア王国があった時代になります。

BC1400年にアマルナ時代に入っています。

 

(※現在残っているシュメル語版はBC2000年期前半の古バビロニア時代に書かれた粘土板で、ニップル市から出土しました。物語の4分の1しか残っていなくて、分からない部分も多いようです。これは、アッカド語で書かれた「ギルガメシュ叙事詩」の中で語られている内容とほぼ同じであるとしています。)

 

 しかし、注目してほしいのは、その後BC1200年になって初めて『ギルガメッシュ叙事詩』が標準版成立されたのです。

これは、BC1473年にモーセが創世記~申命記までを執筆し終えたよりも273年も後なのです。この事実も意味があるように思えます。(どちらがマネしたのか?)

 それに、この『ギルガメシュ叙事詩』をまとめ上げた人物は、シン・レキ・ウンニンという呪術祭司であることが判っています。神の忌み嫌う呪術祭司が、真実の神話や歴史史実を書くとは到底考えられません。

 

 

 

 二ムロドの名前の意味 

 

 

 二ムロドの名前の意味は、ヘブライ語「我等は神に反逆する」という意味であり、彼の都バベル(バビロン)も「神の門」もしくは「混乱する」という意味です。

因みに、ギルガメッシュの名前の意味は、ビルガ=祖先・老人、メシュ=英雄・若者という意味です。これは冥界と関わりのある祖先崇拝を暗示しており、『ギルガメシュ叙事詩』第11書版で、ギルガメッシュは、若返りの草=不死の草の存在を教えられてています。この草の名前こそがギルガメッシュなのです。

(この時代から「不老不死」は後の「錬金術」とも繋がり、呪術・魔術と共に現代に至るまで悪魔崇拝の定番となっています。)

 

 

 バビロンには50以上の神殿があったといわれており、おびただしい占術・降霊魔術、富と悪徳で栄える資本主義、偶像崇拝の象徴とされていました。

それに『ユダヤの古代史』を書いたフラウィウス・ヨセフスは、「バベルの塔」について、この物語は、人々が大洪水を引き起こしたか神への復讐のために塔を建てたと解釈していました。

そして神に対し、このような侮辱的な行為に出るように民衆を扇動した者はハムの孫で、強壮な体力を誇る鉄面皮人の二ムロドだったとしています。

 

 二ムロドは、神のおかげで都市が繁栄したのではなく、自分達の知恵と力によるものであるとして民衆に訴えました。そして神が再び洪水を起こすというのなら、水が達しないような高い塔を建てて、父祖達の滅亡の 復讐をしようと考えたのです。

人々も二ムロデの「神に従うことは奴隷なることである」という考えに賛同し、塔の建設に取り組んだのです。

また、ラビ伝承でも、「ノアの子孫二ムロド王は、神に挑戦する目的で剣を持ち、天を威嚇する像を塔の頂上に建てた。」と言われています。

 

 

 二ムロドが神を呪っていたとするなら、ャハウェによる地球創世や人類創世を全否定することも、ノアの洪水伝説を歪曲したとしてもなんら不思議なことではありません。

やはり二ムロドが、それらをわざとすり替えて、自分の英雄武勇伝として残したのではないでしょうか。