tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

エゼキエル書 4.

エゼキエル書

 

 

 

 

 第5章

 

 

 

 剃られた髪

 

 「あなたは、人の子よ、

自ら鋭い剣を取れ。それを取って理髪師の剃刀(かみそり)とし、

自分の頭と髭とにあてなければならない。

そして、自ら天秤計りを取り、それら剃り落した髪と髭を分けておくように。

かの包囲の日が満ちるとき、あなたは3分の1を町の中で火を持って燃やし、

もう3分の1を取って、町の周りで剣を持って打ち、

残りの3分の1は風にまき散らさなければならない。

わたしはそれらの後ろから剣をふるう。

 

 また、あなたはそこから数本の髪と髭を取り、それらを着物の裾で包むがよい。

そして、それらの中から更に幾つかを取って、

火の中に投げ込み、それらを火で燃やすがよい。

そこから火が出て、イスラエルの全家に及ぶであろう。」

 

 主、ャハウェはこう言った。

 

 「これは、エルサレムのことである。

わたしは諸国民の只中に彼女を置く。

彼女の周囲は他の国々となる。

彼女は、諸国民にも増す邪悪さをもってわが公正に、

周囲の国々にも増してわが掟に、逆らった。

彼等はわが公正を斥け、わが掟に歩まなかった。」

 

それゆえ、主ャハウェはこう言った。

 

 「お前達は、周囲の諸国民にも増して、わたしに逆らい、

わが掟に歩まず、わが公正を行なわなかった。

お前達の周囲の諸国民の公正ほどにも行わなかった。」

 

 それゆえ、主ャハウェはこう言った。

 

 「さあ、わたしはお前に立ち向かい、このわたしが諸国民の眼前で、

お前のただ中に審きを行う。

かつて行ったことのないことを、また再び行うことのないであろうことを、

わたしはお前に行うであろう。

お前の犯した種々の忌まわしい行為ゆえである。

それゆえ、お前の中では、父親らが息子を食らい、息子が父親を食らうようになる。

わたしはお前に審きを行い、お前の残りの者にもあらゆる方角に散らす。」

 

 それゆえ、わたしにかけて、とはャハウェの御告げ。

 

 「お前は、お前の犯したあらゆるおぞましい行為や、

あらゆる忌まわしい行為をもってわが聖所を穢したゆえに、

わたしは必ずやお前を剃り落とす。

わが眼は見逃さない。

わたしは容赦しない。

お前の3分の1は疫病で死に、

お前の只中で飢餓により滅びる。

もう3分の1はお前の周囲で剣に斃(たお)れ、

残りの3分の1はわたしがあらゆる方角に散らし、

それらの後ろから剣をふるう。

 

 こうして、わが怒りは止み、

わたしは彼等に対する憤怒を鎮め、恨みを晴らす。

こうして、彼等は知るであろう、

わたし、ャハウェがわが嫉妬をもって語ったのだと。

 

 わたしが彼等に対する憤怒を鎮める時、わたしはお前を、

周囲の諸国民の間では廃墟、過行くすべての者の目には嘲笑の的とする。

わたしが怒りと憤怒と憤怒の懲罰とをもってお前に審きを行う時、

お前は周囲の諸国民の嘲笑と誹謗、訓戒と驚愕の的となるであろう。

わたし、ャハウェがこう語ったのである。

 

 わたしが飢餓と災いの矢をお前達に放った時、

それは滅びをもたらすためのもの。

お前達を滅ぼすためにわたしが放つもの。

 

 わたしはお前達の上に飢餓を増し加え、

お前達のパンの吊るし棒を砕く。

わたしはお前達の上に飢餓と悪い獣を放つ。

それらはお前を子絶やしにするであろう。

また疫病と流血とがお前を襲うであろう。

わたしはまた、お前の上に剣をもたらす。

わたしャハウェがこう語ったのである。」

 

 

 

❖補足文(追記)

( エゼキエルの神からの命令について、解説書より説明。

 

 預言者達の象徴行動

 

 預言は基本的に言葉で語られる。幻視体験もまた言語化されてはじめて預言として意味をもった。他方、言葉の預言と並んで、特異な行動を持って神の意志を明示する場合もあった

「淫行の女」を妻に迎えたホセアは、生まれた子供達に次々と奇名をつけた。<ホセア1:2,3:2>イザヤもまた子供に象徴的な名をつけ<イザヤ8:1-4、7:3>、3年間、裸・素足で徘徊したという。こうした象徴行動は、エレミヤとエゼキエルにおいてより顕著になる。

エレミヤは帯を腐らせ<エレミヤ13:1-7>、人々の前で壺を砕き、自らの首に軛をはめて人々の前に出た。<28:10-17>。投獄中には、故郷の畑地購入の契約を結んだという。<32:6-15>。

 

 エレミヤのこの最後の象徴行動がエルサレムでなされている頃、捕囚の地では、エゼキエルが同胞の前で奇妙な行動を取っていた。バビロニア軍によるエルサレム攻撃の模様を煉瓦で再現みせるかと思えば、長い間、横向きに横たわり、牛糞で焼いたパンを食べる。自ら剃り落した髪と髭を燃やし、風にまき散らす。自分の家財を家から担ぎ出し、震えながらパンを食べ、身震いしながら水を飲む。人々の前で腰砕けになるかと思えば、妻の死を悼むことをあえてしないのである。

21章23節以下などは、エルサレムに向かって進軍中のバビロニア王のマネをする預言者を髣髴(ほうふつ)させるだろう。エゼキエルはこれらの行動を通して、祖国に安易な期待を抱く捕囚の同胞に、ユダとその首都エルサレムバビロニアにより滅亡し、ユダ残留の民が辛苦を嘗めさせられ、その一部が捕囚に連行されるであろう、と告げたのである。

 

 エルサレム陥落後は、イスラエルの回復の希望の象徴として、二本の木枝を片方の掌中で一つにしてみせている。

これら、エゼキエルの象徴行動は、衝撃療法を意図したものではなかった。むしろその行動自体が一種の寓喩預言であった。その重点は、これを見た同胞にその意味を解き明かすことに置かれていた。象徴行動を伝える記事が預言者の行動の報告という形式をとらないで、預言者にこれを命じる神の言葉を中心に編集されているのは、そのためである。いずれにせよ、エゼキエルの預言活動は言葉と行動によっていた。それによって彼の存在自体が「イスラエルの家の予兆」となったのである。

 

 (*寓喩預言…抽象的な事柄を具体化する表現技法。意味としては比喩に近い。シンボルやイメージを用いて表面的意味より深いものを伝える。)