tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

エゼキエル書 14.

エゼキエル書

 

 

 

 

 第18章・第19章 (省略)

 

 

 第20章

 

 

 

 

 出エジプトと祖父達の忌まわしい歴史

 

 第7年、5月10日、イスラエルの長老の何人かがャハウェに尋ね求めようとしてやって来て、我が前に座した時のことである。

ャハウェの言葉が私に臨んで言った。

 

 「人の子よ、イスラエルの長老達に語れ。

あなたは彼等に言わなければならない。

主、ャハウェがこう言ったと。

 

 『お前達はわたしに尋ね求めようとしてやって来るのか。

わたしにかけて言うが、わたしはお前達の求めに応じない。』

 

 とは主ャハウェの御告げ。

 

 「あなたは彼等を審くのか、人の子よ、審くのか。

ならば、彼等の父祖達の忌まわしい行為の数々を彼等に知らせよ。

彼等に言わなければならない。主ャハウェがこう言ったと。

 

 『わたしがイスラエルを選んだ日、

わたしはヤコブの家の子孫に誓いの手を挙げて、

エジプトの地で彼等にわたし自身を知らせた。

わたしは彼等に誓いの手を挙げて言った。

わたしャハウェがお前達の神であると。

 

その日、わたしは彼等に偵察させた乳と蜜の流れる地、

それは全地で最も麗しい、を目指してエジプトの地から、

彼等を導き出すことを彼等に手を挙げて誓った。

 

 わたしは彼等に言ったものた。

「各々、その目の前にあるおぞましいものを投げ棄てよ。

エジプトの偶像によって自分を穢してはならない。

わたしャハウェがお前達の神である。」

 

 ところが、彼等はわたしに逆らい、聞き従おうとしなかった。

彼等は各々その目の前にあるおぞましいものを投げ棄てず、

エジプトの偶像を放棄しなかった。

そこでわたしは思ったことだ、エジプトの地の只中で彼等の上にわが憤怒を注ぎ、

彼等に対するわが怒りをとどめようと。

しかしわたしは、わが名ゆえに、彼等がその中に住んでいる諸国民の眼前で、

わが名が冒瀆されることのないようにした。

すなわち、私は彼等をエジプトの地から導き出すことによって、

諸国民にその眼前で自らを知らしめたのである。

 

 わたしは彼等をエジプトの地から導き出し、荒野に導き入れた。

そして、わが掟を彼等に与え、わが公正を彼等に知らせた。

人がこれらを行い、これらによって生きるためである。

また、わたしャハウェが彼等を聖別する者であることを彼等が知るために、

わが安息日を彼等に与え、わたしと彼等との間の徴とした。

 

 ところがイスラエルの家は荒野でわたしに逆らった。

彼等は、人がそれらを行い、それによって生きるために与えたわが掟に歩まず、

わが公正を斥けた。

また、わが安息日をいたく冒瀆した。

そこでわたしは思ったことだ。

荒野で彼等の上にわが憤怒を注ぎ、これをとどめようと。

 

しかし、わたしは、わが名ゆえにわたしが彼等をその眼前に導き出した

諸国民の眼前で、わが名が冒瀆されることのないようにした。

わたしはまた荒野で、わたしが与えた乳と蜜の流れる地、

それは全地で最も麗しい…

に彼等を導き入れることをしないと彼等に手を挙げて誓った。

それは、彼等がわが公正を斥け、わが掟、これに歩まず、

わが安息日を冒瀆したからである。

 

 実に、彼等の心は自分達の偶像を追い求めた。

だが、彼等を滅ぼさないために、わが眼は彼等を見逃した。

わたしは荒野で彼等にとどめを刺すことはしなかった。

また、わたしは荒野で彼等の子等に言ったものだ。

 

 『お前達の父祖の掟に歩んではならない。

彼等の慣わしを守ってはならない。

彼等の偶像によって自らを穢してはならない。

わたしャハウェがお前達の神である。

わが掟に歩め。

わが公正を守って、それを行え。

わが安息日を聖別せよ。

安息日がわたしとお前達の徴となって、

わたしャハウェがお前達の神であると知るように。』

 

 ところが、この子等はわたしに逆らって、わが掟に歩まなかった。

わが公正を守らず、それらを、つまり、人がそれらを行い、

それによって生きうるはずのものを、行なわなかった。

彼等はわが安息日を冒瀆した。

わたしは思ったことだ。

荒野でわが憤怒を彼等の上に注ぎ、彼等に対するわが怒りをとどめようと。

しかしわたしは、彼等から手を引き、わが名ゆえに、

わたしが彼等をその眼前に導き出した諸国民の眼前で、

わが名が冒瀆されることのないようにした。

 

 わたしはまた、荒野で諸国民の間に散らし、

彼等を国々に追散らすことを、彼等に手を挙げて誓った。

それは、彼等がわが公正を行なわず、わが掟を斥け、

わが安息日を冒瀆し、彼等の目が父祖達の偶像に向いていたからである。

わたしもまた、彼等に良くない掟と、

それによって彼等が生きることのない公正とを与えた。

彼等がすべての※①初子を火によって捧げた時、

わたしは彼等をその献げ物によって穢した。

わたしが彼等を呆然とさせるため、

わたしがャハウェであると彼等が知るためである。』

 

 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え。

あなたは彼等に言わなければならない。

主ャハウェがこう言ったと。

 

 『またもや、これだ。

お前達はわたしに不実をはたらき、わたしを嘲った。

わたしは彼等に与えると手を挙げて誓った地に彼等を導き入れたが、

彼等はすべて小高い丘とすべて枝を張った木を見ると、

そこで彼等の供犠を献げ、そこで厭(いと)わしい彼等の献げ物を供え、

そこで彼等の宥めの薫香を献げ、そこで彼等の※②潅(かん)てんを注いだ。

そこでわたしは、彼等に言った。

お前達が通う高台とは何かと。

その名は今日まで高台と呼ばれてきた。』

 

 

 

 

 ❖補足文

※①初子男児の初子をャハウェに献げる、もしくはその身代わりに動物の供犠として献げる祭儀律法<出エジプト13:2ー3・22:28>エゼキエルが大胆にもこれを「良くない掟」と断言する理由は、<列王記下>などにも伝えられるように、この掟が息子や娘を「火によって献げる」といった人身供犠と結び付けられていたからであろう。<列王記下16:3・17:17・21:6>

 

✤「聖別」という言葉の意味は、人や人物、特に礼拝で使用する器具などを聖なるものとして、他の被造物と別のものとすることである。という意味であり、命を献げるという意味ではありませんし、「聖なるもの」とせよ。と言ったものであり、<出エジプト13:2>においても、神は初子の命を聖別して献ぜよとは言っておりません。

(ただ、信仰においては、確かに神に対しては命を求められたのであれば、かつてのアブラハムの場合のように、与える覚悟はしなければならないかもしれませんが、神はいたずらに命を奪う方ではなく、アブラハムの息子イサクも神はその命を奪ったりはされませんでした。)

つまり、悪魔が勝手に祭儀を逆手に取り、命を献げさせたのです。

以下参照。

 

出エジプト13:2>

 

 「わたしのために聖別しなさい、すべての長子、つまりすべて胎を開くものを。イスラエルの子等の中で人間でも、家畜でも。それはわたしのものである。」

 

 

※②潅てん…こうした非ャハウェ宗教的祭儀行為は律法、歴史書、預言書などでも非難の的とされる。<申命記12:2><列王記上14:23>他

 

✤潅てん…私調べですが、潅てんの潅の字も実は難しい潅の方のようで出てきませんでしたが、別の記事で「潅てん」とは、家長が古代ギリシャの守護神アポロン、アルテミス、ゼウス神、レト、ディオニュソスに感謝を込めて葡萄酒を捧げる宗教儀式のことではないかと思いますが…??)

 

 

 

 

 第二の「出エジプト

 

 それゆえ、イスラエルの家に言え、主ャハウェがこう言ったと。

 

 『お前達の父祖達の歩みをもって自らを穢したのか。

お前達が彼等のおぞましいものと姦通委しているというのに、

お前達の贈り物を携えたり、お前達の息子の火によって献げることによって、

今日まで、お前達のあらゆる偶像をもって自らを穢しているというのに、

わたしがお前達の求めに応じられるだろうか。

 

 イスラエルの家よ、わたしにかけて言うが、

わたしは、お前達の求めに応じない。

お前達の思い上がりは決して実現しない。

お前達は、諸国民のように、各地の種族のようになって、

木や石に仕えよう、と言っているのだから。

 

 わたしにかけて言うが、強い手と伸ばした腕と注がれる憤怒とをもって、

わたしはお前達の王となる。

わたしは強い手と伸ばした腕と注がれる憤怒をもって、

お前達を諸民族の中から導い出し、お前達が散らされた地からお前達を集める。

 

 わたしはお前達を諸民族の荒野に導き入れ、

そこで顔と顔を突き合わせてお前達を審く。

わたしがエジプトの地の荒野でお前達の父祖を審いたと同じように、

お前達を審く。

 

 そしてわたしはお前達に※③杖の下をくぐらせ

契約のきずなにお前達を導き入れる。

わたしはお前達の中からわたしに反抗する者達と背く者達を選り分ける。

わたしは彼等を寄留の地から導き出すが、

※④彼等はイスラエルの土地には入ることがないであろう。

こうして、お前達は知るであろう。わたしがャハウェであると。』

 

 お前達、イスラエルの家よ、主ャハウェはこう言った。

 

 『それぞれ自分の偶像に行け。これに仕えよ。

後には必ずや、わたしに聞き従い、お前達の偶像の贈り物を持って

聖なるわが名を冒涜することは絶えてなくなるであろう。

それどころか、聖なるわが山、イスラエルの高い山で、

そこでこの地にあるイスラエルの全家、彼等の全てはわたしに仕えるであろう。

わたしはそこで、彼等を受け入れる。

わたしはそこで、お前達の献納物とお前達の最上の奉献物すべてを、

お前達の献げる聖なるものとして求めよう。

 

 わたしがお前達を諸民族の中から導き出し、

散らされた各地からお前達を集める時、

わたしは宥めの薫香でお前達を受け入れる。

わたしは諸国民の眼前でお前達を通して自らを聖なる者として現す。

こうして、わたしがイスラエルの地、

お前達の父祖に与えると手を挙げて誓った地に、お前達を導き入れる時、

お前達は知るであろう。

わたしこそャハウェであると。

 

お前達はそこで、自分達の歩みとお前達自身を穢した行為を想い起こし、

お前達が行ったすべての悪のゆえに、自己嫌悪におちいるであろう。

こうして、わたしがお前達の悪い歩みに応じてでもなく、

お前達の破滅の行為に応じてでもなく、むしろわが名ゆえに、

お前達にこのように行う時、イスラエルの家よ、お前達は知るであろう、

わたしがャハウェであると。』

 

 とは主ャハウェの御告げ。

 

 

 

 

 ❖補足文

(※③杖の下をくぐらせ…70人訳「わが杖」。杖は羊飼いの導き、転じて支配者の支配権の象徴。ここでは、原語は異なるが、モーセの杖を連想させる。

※④彼等はイスラエルの土地に入ることができない…出エジプト後、神とモーセに反抗した民は、約束の地に入ることは出来なかった。との伝承にもとづく。)