tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

悪魔を愛した者達 4.

『悪魔を愛した者達』

 

 

 カナン人の宗教は多種あるので、その代表的なものから順に紹介していきます。

 

 ■ バアル

 

 「聖書大辞典」より、カナン宗教においては種々の地域神がバアルと呼ばれていた。特にアハブとイゼベルの統治下に崇拝されていたティルス(ッロ)のバアルに対するエリヤの戦いに現れているようなイスラエルのャハウェ宗教との抗争の結果、地域神としてのバアルの概念は排除され、「偶像」その他の意味を持つようになった。(→神々、偶像崇拝)。複数形バアリームも、カナン宗教との抗争が述べる文書に出て来る。

士師記2:11他>

カナンのバアル祭祀を復元するには、例えばバアルの代わりに嵐の神「ハダデ」が広く言及されるアマルナ文書、またなかんずくウガリット文書にみられるような、旧約聖書以外の証言が顧慮されなければならない。

 

 ウガリット文書においては、バアルの本性は天候および豊饒という領域との結びつき、そしてまた彼に付き添う女神(→アシラ、アテナ)によって規定されている。旧約聖書においても同様に、バアルはしばしばアシラもしくはアシタロテと結び付けられる。<王上11:5など>。

 

 旧約聖書のバアルは神々はそれゆえ、個々別々の地域神ではなく、一つの同じバアルが種々の地域的な特色を帯びたものである。

例えば、バアル・ベリテ、エクロンのバアル・ゼブブミルコムメルカルトがそうである。

 

 バアルは天空神としても(バアル・シャメム)前2千年紀末より崇拝されていた。植物成育の神として常にカナン的円環思考と結合していたこのバアルに対するイスラエルの抗争は、アンティオコス4世エピファネスの治下、オリンポスのゼウスを、すなわちギリシャ的形態の天のバアルをユダに持ち込んだことに反対した蜂起の中にもなお伺われる。

 

 

■ バアル・ゼブブ

 

 「蠅の主」、イスラエルの王アハジャが神託を求めて使者を送ったエクロンの神。そもそも、この風変わりな神名は、以前にはゼウス・アポミュイオス(蠅を防ぐゼウス)のような害虫を祓う神々に連なるものとして説明されていた。また、蠅を招き寄せる神と考える研究者もあった。

しかし、ウガリット語のzblがバアルの称号として用いられていたり、新約のベルゼブル<マタイ10:25、12:24>や、その他ゼブルを含む神名が存在することなどから、バアル・ゼブブは元来の形バアル・ゼブルの誤系であると見られる。

 

 語源zblは、おそらく「高くかかげる」という意味であり、従ってウガリット文書にみられるバアルの別名zblは「気高き方」、「君主」などと訳される。

 

 

 

■ ベリテ

 

 Berith シケムで崇拝されていたカナンの神バアル・ベリテあるいはエル・ベリテの神名の一部に出るカナンの言葉としての意味は不明。ヘブライ語は「契約」を意味する。シケムのバアル・ベリテやエル・ベリテは、「イスラエル人のャハウェ契約のカナン的類例」であった可能性がある。アビメレクは、この神の神殿から金銭を受け取っている。<士師記9:4>この神殿はシケム発掘によって明らかにされた。

 

 

 

■ ベル

 

 Bel バビロニアの神。<イザヤ46:1エレミヤ50:2>アッカド語のベール「主」という称号は、バアル「主」と同様。特にニップルでは、エンリル神の別名として用いられたが、バビロンではハムラビ王以来、マルドゥクの別名として受け継がれた。(新アッシリアでも特にアッシリアの主神アッシュルの別名として用いられた。)

 

 

 

■ ハダデ

 

 風雨(嵐と雷)の中に顕現し、雄牛の像と結び付いている。この神はバアル・シャーメームもしくは単にバアルとも呼ばれる。

前2千年紀にはアレッポ、ダマスコ、ゼンジルリ、後にはドゥラ・エウロポス、バアルベクがその主要な祭礼地であった。旧約聖書では神名要素を含んだ固有名の一要素として見られるにすぎない。

 

 

 

■ ミルコム

 

 アンモン人の国家神として何度か言及されている。

<王上11:5,33、エレミヤ49:1,3>。

ミルコム礼拝をイスラエルに導入したのはソロモンであって、当初はアンモン人の妻達の単なる私的礼拝であった。このソロモンの礼拝所は、エルサレムの東、オリブ山の南、それゆえ多分ケデロンの谷の南部であったが、ヨシヤによって破壊された。

<王下23:13>。

 

 ミルコムは、モアブの国家神、ケモシやシドンのアシタロテと共同の礼拝所を持っていた。ミルコムとケモシが類似していたことは士師記11:24にも示されているかもしれない。そこでケモシがアンモン人の国家神と呼ばれている。ミルコムは元来、多分固有名詞ではなく、殊にシリアや北メソポタミアに流布していた神々の称号である<マリク>「王」(→メルク、メルカルトモロク)に遡るであろう。

 

 

 

 ■ モロク(モレク

 

 

 西セム族の間で広まった神の称号、malik「王」を意味する場合melek

(→メレク)、これにboset「はずかしめ」(→ボセテ)の母音が付けられることによってmolekに変形された。

カルタゴの犠牲の概念として供える事と類似的に解釈される場合。後者の解釈がより妥当性を持つと思われる。したがって旧約聖書では、モレクはトぺテ(祭壇)における子供の供犠を指している。<王下23:10,エレミヤ32:35>。

 

 新約聖書ではモレクの崇拝は、荒野放浪時代に遡るとされる。

アモス5:26、使徒7:43>。

 

 

 

 ◆補足文

(西セム族の神とされる、このモロク神は、ロトの子供である、姉妹の子孫が崇拝した神です。ロトはアブラハムの甥にあたり、ソドムとゴモラが神によって滅ぼされる時に、唯一救われた家族でした。

しかし、ロトの妻は神のみ使い達のいいつけを守れず、滅びゆく町を振りかえってしまい、「塩の柱」に変えられてしまいました。そして、残されたロトと2人の姉妹のみが生き残ったのです。

しかし、この姉妹は自分達の子孫を残す方法として、父を選びました。仕方がなかったとはいえ、近親相姦をしたことになります。(父をワインで酔わせ)この行為によって誕生したのが、姉の子供、モアブと、妹の子供、ベン・アミ(私の肉親の子)でした。2人とも男の子でした。

 

 モアブはそのままモアブ人として広がり、ベン・アミの子孫はアンモン人となりました。

 アンモン人は今日のヨルダン王国の首都アンマンを中心とし、モアブ人はその南側に国を形成しました。そして、上記のように、アンモン人はモレク神、(ミルコム神はモレク神の別名)を崇拝し、モアブ人はケモシュ神を崇拝しました。

 

 モロクの人身御供の儀式には「火の中を子供達に走らせる」などをさせ、ユダヤの伝承によれば、牛に似たモロクの像の中に7つの棚が造られており、その中に生贄として小麦粉、鶏、雌牛、雌山羊、仔牛、雄牛、順に入れられ、最後に子供を入れていました。モロクの像の内部は煌々と照らされ、祭司達は子供達の泣き叫ぶ声を打ち消すために、その周囲で楽器をやかましい程に打ち鳴らしていました。

 

 古代ギリシャ人やローマ人の報告では、カルタゴでは、青銅製の神像のモロクの腕に子供を抱かせて、子供を抱かせると自動的に子供が火の中に落ちていったといいます。また、モロクは、カルタゴの神メルカトルとも同一視されています。)