tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

悪魔を愛した者達 3.

 

『悪魔を愛した者達』

 

 今回は「カナン人」について深堀しようと思っていますが、その前にちょっと付け足しのおさらいをしていきます。

 

 一般的には、歴史上の人類の起源については、再三にわたってメソポタミアシュメール人であるとされています。これを、聖書的に解釈すると、人類は最初のアダムとイヴの子孫がネフィリムの誕生によって地上が壊滅的になり、神によって大洪水を起こされ、リセットしたことになっています。そして、選ばれた人間の家族、ノアの家族から人類は再スタートを切ったのです。

はい、これもしつこいくらい知っている話でしょうが、ノアの「箱舟」について、聖書では洪水後どこに辿り着いたと書いてあるでしょうか。

 

 <創世記8:4>

「7月17日、箱舟はアララト山地に着いた。」

 

 とあるように、現在のトルコ・アルメニア国境の高原地帯に到着しました。

つまり、聖書での人類の再スタート地点は、メソポタミアの地域ではなく、トルコのアララト山地周辺からだったということになります。ヨベル書においても、

 

ヨベル書第7章1~>

「このヨベルの第7年週、第7年にノアはアララテ山脈のルバルという名の山で、箱舟が止まったあの山に、葡萄園を開き、4年目には実が成り、その実をよく手入れし、その年の7月にこれを摘んだ。」

 

 とあります。

 

更に、この<ヨベル書7章>の続きを読むと、

 

<ヨベル第7章10~>

 ノアは眠りから醒めて下の子が彼にした一切のことに気づき、その子を呪って言った。『カナンは呪われるがよい。……』 

彼(ノア)は、セムを祝福した。

セムの神、主はほむべきかな。主がャぺテに広々とした場所をそなえ、主がセムの住まいに住まわれ、カナンは彼の奴隷となるように。』

 

 

 ハムは父が彼の末子(カナン)を呪ったことを知り、わが子が呪われたことが面白くなく、クシ、マステレム、プト、カナンという自分の子供達を引き連れて父と別れた。彼は自分の町を建て、その名を妻の名にちなんでネエラタマウクと付けた。

 

 ャぺテはこれを見て兄を嫉妬し、自分の町を建て、妻の名にちなんでアダタネセスと命名した。しかし、セムは父ノアと一緒に住み、父の傍に、例の山(ルバル)に町を建て、彼も妻の名にちなんでこれをセデケテルバブと命名した。

見よ、これら3つの町はルバル山に近い。

 

 と、あるように、この文書からも、人類が箱舟の到着した山の傍からそれぞれ3つの町を建てて住み始めたことになります。

そして、ヨベル書によれば、<ヨベル書第8章7~>からセムの子孫のぺレグが生まれた頃に、ノアの子等は地上の分割を始めたとされています。

 

 <ヨベル第8章7~>

 彼はその名をぺレグと呼んだ。彼が生まれた頃にノアの子等は地を分割し始めた。それゆえに、彼はその名をぺレグと呼ぶことにしたのである。

 

 そして、この後父ノアの懐からそれぞれ、くじを引き、3人が受け継ぐべき土地を分割しました。

ここから、<ヨベル書第8章~第9章>において、分割された土地の場所について詳しく書かれています。

(※このブログにて、『ヨベル書』を紹介しておりますので、参照されてください。)

 

 ハムの子孫からアッシリアの全土、インド近くまで、又エジプトなど、ハムの土地は暑く厳しい地が当たり、セムの土地は寒暖が程よくまじり合って申し分のない場所と決まりました。そこで、ハムの末子のカナンは次のような行動に出ます。

 

 <ヨベル第10章26~>

 ハムとその子等は、彼がくじで引き当てて自分の所領となった南の土地へ出掛けた。カナンはレバノンの地をエジプトの川まで見たが、それは甚だ見事であった。彼は西の方、海の方の自分の受け継いだ土地には行かず、レバノンの地(その東西)、ヨルダンの地、海の側に落ち着いた。

 

 このカナンの行動に対し、彼の父ハムと、ミツライムは次のように言います。

 

 「君のものでもなく、くじで我々に当たったものでもない土地に君が住み着いたようだが、そういう事はしないでもらいたい。そういう事を君がしたら、君も君の子等も反乱にあって地に倒れ、呪われた者となるだろう。反乱で住み着いたのだから、君の子等は反乱で倒れ、永久に根絶やしにされるであろう。

セムの住まいに住むのではない、これはくじでセムとその子等に当たったのだ。

君は呪われている。聖なる審判者と我々の父ノアの面前で、誓いをもって我々自身を縛ったあの呪いによって、ノアのどの子供達よりも君は呪われた者となるであろう。」

 

しかし、彼は彼等に耳を貸さず、その子等と共にハマテからエジプトへの入口に及ぶレバノンの地に住み着いて今日に至っている。このゆえに、その土地は「カナン」と名づけられた。」

 

 となっています。

この出来事により、ャハウェがモーセに与えた「約束の土地」が元々はセムに与えた土地であった「カナンの地」であったということがわかるわけです。

 

 一方、セムの子、アラムも<ヨベル書第9章5~>第4の区域として、チグリスとユーフラテス川のメソポタミア全土、カルデアの北方、アッシリアの山々とアララの地の近くまでに至る地域が当たっています。

 

 だから、世の学者が言う、人類の始まりはメソポタミアであったという説はまったく間違っているとは言えません。それに、セム系であったというのも合っています。

しかし、ここで、人類起源説が謎のシュメール人であったという事については聖書を信じる者としては、やはり洪水前の世界における、堕天使と人間のハイブリッドであるネフィリムの一族がこのメソポタミアの地に洪水後も生き残っていて住んでいたのか、もしくは、洪水後においてはすっかり消えていなくなっていて、遺跡だけが残された状態でセム系が後に移り住んだのかということになると考えています。

聖書的には、恐らく洪水後の、シュメール人の居なくなった後のリセット時代の方だと思います。

 

 現代の考古学の遺跡の年代解析については、その測定方法において実は穴だらけであり、随分といいかげんなものであるという話があります。彼等支配層の都合のいい歴史認識を作り上げるためだと言われてもいます。

だいたい、遺跡を発掘して熱心に収集し、その歴史本を監修、出版しているのは、中世から王族に属する科学者や研究者達であり、博物館として大切に保管しているのも国の機関です。そして、古代研究で成果を上げた者にはたくさんの地位と名誉を与えたりしています。

なぜ、王族達(特に大英帝国)がそんな自国とは関係ない他国の遺跡発掘に熱心であるかについては、つまり、その古代の遺跡は、民族的血統をたどれば、彼等の祖先にあたる王家の遺物ということになることを初めから知っていたということでしょうか。

そうとなれば国宝となって当然ですし、その古代の王達がどんな神々を祀っていたかにおいて調べていくなら、それはもう、THE「偶像崇拝」ですし、「神秘宗教」であり、天体崇拝、太陽崇拝、月崇拝、女神崇拝と相場は決まっています。現在も同じことを彼等もやっているわけですもんね。

むろん、これは世界中が同じようなことになっております。

私が言っていることは、別に「陰謀論」という枠で片付けてもらっても構わないわけですが、私だけがこれらの話を論じているのではないですし、現に「陰謀論」に興味があて色々調べている方であれば、同意できる部分もあるのではないかと思います。

 

ということで、また脱線してしまったかもしれないですが、

上記の「ヨベル書」のように、ハム系の特にカナン人がその後の時代においても、セムの豊かな土地をねたんで、どんどん侵食していったのではないかと予想がつきます。そして戦争が起きてゆきます。

 

 

 <ヨベル第11章2~>

ノアの子等は同士討ちをはじめ、捕虜として捕えたり、殺し合ったりし、人の血を地上に流し、血を食い、堅固な都市、城壁、塔を築き、人間個人を国家以上に重んじ、王国の基礎をすえ、国と国、民族と民族、都市と都市は戦火を交え、ありとあらゆる悪事を働き、武具を手に入れ、子等に戦を教え、町の住民を捕虜にし、男女の奴隷を売り始めた。

 

 

 では、ここから

カナン人の深堀をしてゆきます。

 

 また、ついでなので「ヨベル書」からカナン人の娘等に関して書かれているので、ちょっと抜粋させてもらいます。

まず一つはアブラハムが死ぬ前にわが子ヤコブに言った遺言です。

 

 <ヨベル第22章16~>

「わが子ヤコブよ、お前は私の言葉を肝に銘じ、お前の父(祖)、アブラハムの命令を守れ、異教徒達とはきっぱりと手を切り、彼等と食卓を囲んだり、彼等の行いに倣って行動したりするな。また、彼等と仲間になるではない。彼等の行いは穢れており、彼等の道はことごとく汚れ、下品で、忌まわしいばかりである。彼等は死体に生贄を供え、悪霊を拝み、墓場で食し、彼等の行いは全て空虚で無意味である。彼等には思索するに理性がなく、彼等の眼は彼等の行いの何たるかを見ず、木に向かって、あなたは私の神様ですとか、石に向かってあなたは私の主にいます、あなたは私の解放者にあらせられますと言ったりすることがどんな迷いであるかを見ない。彼等には理性がない。わが子ヤコブよ、いと高き神がお前を助けて下さるように。天の神がお前を祝福し、お前を彼等の穢れと彼等の全ての惑わしから遠ざけてくださるように。

わが子ヤコブよ、カナンの娘達の胤の中から妻を娶らぬように心せよ。

この胤は全て地上から根絶やしにされねばならないのだ。ハムの咎ゆえカナンを惑わされ、彼の子孫はその総ての生き残りと共に地から抹殺されるのである。彼等の中で裁きの日に助かる者はない。

全ての偶像を崇める者、および憎まれた者には生ける者の地で何の希望もない。…。」

 

と、もう一つは以下の文です。

 

<ヨベル第25章1~>

このヨベルのこの年週の第2年に、リベカはその子ヤコブを呼び付けて言い聞かせた。

「わが子よ、カナンの子孫の中から二人の妻を娶った兄さんのエサウみたいに、カナンの娘達の中から妻を娶ってもらっては困ります。あれ達のやることなす事1から10まで汚らわしく、随分辛い思いをしました。何をしても淫乱、放縦で、正しさなどこれっぽちもなく、悪い事だらけです。……。」

 

 

 

 

 次は「聖書の世界」ハリー・トーマス・フランク著 / 秀村◯ニ/高橋正男訳

から引用させてもらいます。

 

 「今日我々が文化と呼んでいるものが出現し始めたのは、人類の歴史から見れば瞬く間であるが、ようやく5500年程前のことであった。パレスチナにこの文化を築いたのはカナーン人であった。前3200年頃に遊牧民の群がそれを圧倒し始めるまで、途切れず、連綿として続いた。このほとんど1000 年の期間は、考古年代の上からは初期青銅器時代として知られている。初期青銅時代のカナーンの顕著な特徴は、城砦都市だった。カナーン人の初期パレスチナでは、ほとんどすべての肥沃な先端に高い城壁が、突起した丘の上にそびえていた。

(略)

 太陽が昇ると、都市は活気づいた。大きな木製の門が開かれて、農夫達が防壁を出て、日暮れまで働く周辺の畑や葡萄山に歩いて行く。

……物々交換をしている商人達は始終宙に手を振り回していた。ここかしこに、若い女を従えた女性達が、歩みを止めて、陳列台の新しい装身具に溜息まじりに見入っていた。貝の耳飾り、婚約首飾り、銀の腕輪、ごくまれに金の指輪が並べられていた。

しかし、すぐに女性達は、また粗布を家で織る仕事や、玄武岩の石臼で粉をひく仕事に戻って行った。

 聖堂では、各都市には少なくとも一つはあったが、礼拝者達は、神殿を形造る3つの部屋のうち最初の部屋に入った。彼等は、穀物や葡萄酒やオリーブ油を満たした小さな器を携えていた。真ん中の部屋では、彼等が壁沿いの低い台の上に器を置くと、祭司達は、それを取り上げ、第3番目の一番奥深い部屋の至聖所の神の御前に供えた。この部屋は明かりがあったとしても、薄暗い方形の部屋で、壁は赤く塗られていた。

後ろの壁には、今もってその使用目的が不明な小さなくぼみがあった。

(略)

 

 容易に通行できる比較的安全な陸路によって、ダマスクスやその向こうのメソポタミアと結ばれていた。これ等の理由がから、とりわけ、テュロス、シドン、ビュプロス、それにウガリトが、数か国語が離される裕福で、騒々しい世界的な巨大な交易香となったのである。それに加えて、カナーン人の商船団も、イベリア海岸やサルディニア海に投錨し、メソポタミアパレスチナの農産物や工芸品を商って、鉄鉱石を手に入れていた。何世紀も後になって北アフリカ西部のカルタゴがそうだったように、カナーン人の植民地建設の目標はキプロス島だった。黒海ナイル川流域ではカナーン人の姿がよく見受けられた。

(略)

 フェニキアでは、建築術や石膏術が古代世界ではほとんど類を見ないほどの完成の域に達していた。余裕があれば、支配者達は自らの立派な建造物を設計し、建築するために工匠達を海岸から連れてきた。ソロモンが、主都エルサレムの神殿と宮殿を造営、建立するための人材を派遣してくれるように、テュロスの王ヒラムに懇願したのも同じことだった。ソロモン神殿は、周知のカナーン様式の中で最も素晴らしい実例であり、北方からやって来た工匠達がソロモンの宮殿でも、この神殿でも、レバノン山脈産の大量の杉材を使おうとしたことは不思議ではない。

もし、サマリアのオムリや、アハブの宮殿の廃墟の中に完全な形で保存されたフェニキアの石工達の並外れた技を示すものが発見されることになるならば、それは、これ等の王も、テュロス人やシドン人の建築設計や建築者を雇っていたためである。

(略)

大きな諸海港では文学も盛んであった。現在我々がアルファベットを持つのは、カナーン人のおかげである、という事実に関しては既に言及した。

 

 

 と、ここまで引用させてもらいました。あと、この本の中で、後期カナーン時代の儀礼用の仮面」、ハツォルの陶工の工房で発見された写真が載っています。

仮面は、フェニキア人達から後に血統を受け継いでいく、イタリアの「黒い貴族」に繋がり、イタリアと言えば「仮面フェスティバル」がありますし、支配層イルミの儀式にも欠かせないアイテムの一つです。つまり元はカナン人の儀式アイテムを今も受け継いでいるということですね。

 

 

 

 次には、「旧約・新約・聖書大辞典」より、もっと詳しい説明を引用します。

 

 【カナン人

1, カナン人は、アメンヘテプ2世の石碑で、パレスチナの主たる支配者層の呼称であり、旧約聖書では、ノアの息子の一人で、彼によって呪われたカナンの子孫全体を指す名称である。ペリシテ人エドム人およびアンモン人とは区別され、「カナンの地」すなわち、ヨルダン川西岸の山地のイスラエル以前の農耕民及び都市住民を指す。西部セム人(→アモリ人)からも、彼等を支配していたフルリ・ミタン二人支配者層(→ヒッタイト)からもはっきりとは区別されておらず、また<申命記7:1>の7民族表の他の民族集団との境界もはっきりとは設定されていない。

申命記20:16>以下にある理論的聖絶命令(→聖絶)にもかかわらず、カナン人イスラエルの土地取得に際して全滅させられたのではなく、新石器時代(→エリコ)以来の、特にエズレル平野北部(→タァナク、メギド)および北ガリラヤにおける城壁で防備された都市で、ダビデとソロモンの時代まで長期にわたって存続した。

 しかし、そこでは個々の都市の枠を超えた政治組織が存在せず、時折何人かの王達が共同防備のため暫定的に結びつくに過ぎなかったので、やがてカルメル山以南の海岸平野は✱ペリシテ人および彼等と類縁のTKR 人の手に移った。

前10世紀以降になると、カナン人という民族名は、もはや擬古調の祭儀用語にすぎなくなる。

 

2.(略)カナン人は商才にたけ、海上貿易にまで進出し、「カナン人」の語は後に「商人」の代名詞になった。しかし、彼らの主要な生活の糧は肥沃な土地を利した農耕から得られた。彼等は人物や動物を刻んだ象牙細工、青銅製品、および浅浮彫りを盛んに製造したが、これらは偶像を禁止した宗教的理由により、イスラエル人によって踏襲されることはなかった。

宗教について言えば、カナンでは農耕依存を反映して、自然界の豊饒を祈る祭り、植物と多産を願う性的祭儀が盛んに行われた。これらの一部はイスラエル人によってマッツエバ、アシラの象徴として柱および立木を伴う、いわゆる「高い所」と呼ばれた礼拝所や、初の収穫を奉献する刈入れの祭り、あるいは王権の称場などとともに受け入れられた。カナンにはウガリット文書から知られるように、一時は既に年老いて勢力を失った神であると考えられていたが、最近ではその主役性が認められつつある主神エル(「人類の神」、「被造物の創造主」)とその配偶者アシラ(「神々の生みの親」および「聖なる娼婦」という呼称を持つ)、雨をもたらす天候神にして豊饒の神バアル(主人の意)とその配偶者にして妹であった豊饒の女神アテナ、地上の植物の繁茂と古死をめぐってバアルと戦うモト、旧約聖書では死と疫病の神として現れるが、カナンでは死の神にして癒しの神という2面性をもつレセフなど、それぞれ特定の職能を持つ多くの神々がいた。イスラエル人は、以上のような自然現象と結びついたカナンの神々の職能の幾つかを超越的な歴史の神、契約の神ャハウェの権能の一部へと組み入れた。

例えば、ウガリット神話では「雲に乗る者」とはバアルのことであったが、旧約聖書ではャハウェの呼称となっている。

しかしイスラエル預言者はカナン宗教の持つ異教的・非倫理的要素を厳しく排斥した。一例を挙げれば、豊饒多産の神アシラは、カナンの地で広く礼拝され、女性の性的特徴を誇示したこの女神の土製裸体は初期イスラエル人の居住層からも多く出土しているが、預言者はその異教性を厳しく拒絶し、ついにこの女神は民間信仰が対象となる「聖なる木立」を意味するだけとなった。

 

 

 

 ◆補足文

ペリシテ人について、その系図をたどると、ハム系のミツライムの子孫となっています。「聖書大辞典」によると、セム系ではなく、インド・ゲルマン系に属することは確実としています。最初の定住地はイルリコであったらしいとされ、パレスチナ移住以前に、中継地として「カフトル」に滞在していました。(カフトルとは、他本によれば、「クレタ島」と同等されています。)事典によると、このペリシテ人は、極めて急速にカナン人に同化し、言語及び、宗教の大部分をカナン人から採用したようです。ペリシテ人ウガリット出土文書でよく知られている神々、すなわち、アシドドで、ダゴン、エクロンでバアル・ゼブル、アシロケンでアシタロテを崇拝したのは周知の事実です。と説明されています。タゴン神は、バアルの父として扱われることもある、人と魚が合体した神です。「人魚」も、このタゴン神から来ているというわけです。)