tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

聖書外典偽典(旧約偽典)『ヨベル書』8

旧約偽典 『ヨベル書

 

 

第35・36章は省略

 

第37章

 

 ヤコブエサウの父イサクが死んだ日、エサウの子等はイサクが長子権を末子のヤコブに与えたと聞いてカンカンに怒った。彼等は父親に食ってかかり、言った。

「お父さんの方が年長でヤコブは年下ですのに、どうしてお爺さんはお父さんを差し置いてヤコブに長子権を渡されたのですか。」

 

 彼は彼等に言った。「先に生まれた者としての私の権利を、わずかばかりのれんず豆の料理の代償にヤコブに売ってしまったからなのだ。お父さんが狩りにやって何か獲物を取ってこさせ、それを食べて私を祝福しようとなさった日、あれは上手いこと一芝居して父に食べ物と飲み物を運んで行ったので、お父さんは彼の方を祝福し、私はあれの尻に敷かれることになってしまったというわけなのだ。そして次に、互いに傷つけ合わず、愛し合い、仲良くし、堕落の道に走らない、ということをお父さんは我々、私と彼に誓わされた。」

 

 彼等は彼に言った。「お父さんのおっしゃるように、あの人と仲良くなんかするものですか。私達の方が力はあるし、向こうよりも強いのですから、攻めて行って殺し、向こうの子供達もやっつけてしまうつもりです。お父さんが私達と行動を共にされないというのでしたら、お父さんに対してだって私達は何をするかわかりませんよ。さあ今は私達の言う通りにして下さい。アラム、ペリシテ、モアブ及びアンモンに人を出し、戦意盛んな選りすぐりの者を集め、彼を攻め、彼と一戦交え、向こうが力をつけないうちにこの土地から根絶やしにしてしまいましょう。」

 

 父は彼等に言った。「彼を攻め、戦を仕掛けてはいかん。お前達の方が彼に打ち負かされぬとも限らない。」

 

 彼等は彼に言った。「お父さんは幼い時から今日に至るまで、こういう調子だったのでしょう。今でもあの人の◯に首をつっこんだまま。そんなのはまっぴらです。」

 

 彼等は人をアラムとアドラムの父の友人の所へやって、そこで戦に馴れた選りすぐりの兵1000人を雇った。さらにモアブとアンモンの子等の所からも雇われて1000人の選り抜きの者、ペリシテから戦に馴れた1000人の選り抜きの者、エドムとホリ人の所から1000人の選り抜きの兵士、ケッティムの所から戦に馴れた屈強の者が彼等の所に集まって来た。

 

 彼等は父に言った。「彼等を指揮して撃って出て下さい。さもなくばお父さんの命を頂戴致します。」彼は自分の子等が彼に力ずくで彼等の指揮をとって弟ヤコブを攻めさせようとかかるのを見て身体中に憤怒が満ちた。

 

 彼はヤコブに対して色々な形の悪意が自分の胸に秘められていたのを後で思い至った。それでいて父母に、弟ヤコブに対して悪意は一生抱かないと言って誓ったあの誓いは記憶していなかった。それにも拘わらず、ヤコブは彼等が彼を目指して進攻中であることも知らず、妻レアのことを嘆いていたが、彼等は4000人の戦に馴れた選りすぐりの兵をもってすぐそこ、◯の所まで接近してきた。

 

 ヘブロンの人々は彼の所に使者をよこして伝えた。「兄上が刀を帯び、盾その他の武器をもつ4000人の兵を連れて、あなた目掛けて攻めて来られました。」ヤコブの方がエサウよりも気前が良く、情に厚かったところから、彼等はエサウよりヤコブの方をよく思っていてこうして知らせたのである。

 

 ヤコブは相手が◯のすぐ近くに来るまで信じなかった。彼は◯の扉を閉ざし、その頂上に立って兄エサウに語りかけた。「死んだ家内の悔みを言いにおいで頂いてありがたいことです。父母が死ぬ前に二度も誓っておきながらこうなんですからね。これは誓約違反です。父に誓われた時既に兄さんは裁かれていたのですよ。」

 

 その時エサウは答えて行った。「人間にしろ野の獣にしろ、永遠に続く真実の誓いなんてものはありはしないのだ。夜が明ければ互いに相手の不幸を、いかにして自分の敵を、仇を殺すかを求めるものだ。お前は俺と俺の子供達を永久に憎んでいる。お前と兄弟の契りを結ぶなどもってのほかだ。俺が今お前に告げることをよく聞いておけ。もしも豚がその皮を新たにし、その剛毛を羊毛のように柔らかく出来たら、またもしもその頭に雄鹿か羊の角のように角が生えたら、その時はお前と兄弟の契りを結んでやってもいい。もしも狼が子羊と仲良くし、これを食いもせず、これに乱暴もしないのならば、またもしも彼等狼が彼等子羊に対して優しくしようという気になるならば、その時は俺の心にもお前に対する善意が芽生えるであろう。もしも獅子が牡牛の親友となり、共に一つの軛(くびき)に繋がれて耕すならば、その時は俺もお前と和を結ぼう。もしも鳥が米のように白くなるならば、俺がお前を愛しており、お前と和を結ぶであろうと知れ。そうでもない限り、お前は抹殺され、お前の子等も抹殺されるであろう。平和などあるものか。」

 

 その時ヤコブは彼エサウの自分に対する態度がすっかり悪化し、本気で自分を殺そうとかかっており、突き刺し、殺す槍を目掛けて突進して怯みもしない猪のように小躍りしながらやって来たものであることを知った。その時彼は味方の者および自分の僕達にエサウとその手勢を攻撃するよう命じた。

 

 

 

第38章

 

 その後ユダは父ヤコブに語って言った。「お父さん、弓を引き、矢を放って、敵を射、仇を殺して下さい。元気を出して下さい。私共がお父さんの兄にあたる方を殺すわけにはいきません。お父さんの血を分けた兄さんですし、私共にとってはお父さん同様に敬うお方ですから。」

 

 そこでヤコブは弓を引き、矢を放って兄エサウを射殺した。彼は更にもう1本矢を放ち、」アラム人アドラムの左胸を射、これをのけぞらせて殺した。それからヤコブの子等はその僕等と共に◯の四方に分かれて出て行った。ユダが先陣を承り、ナフタリはガドとその手兵50騎を引き連れて◯の南面に位置し、彼等の前に姿を現したほどの者は全てこれを倒し、一人として助かった者はなかった。レビとダンとアセルは手兵50騎を引き連れて◯の東面に出陣し、モアブとアンモンの兵を倒した。ルベンとイッサカルとゼブルンは手兵50騎を引き連れて◯の北面に出陣し、ペリシテの兵を倒した。シメオンとベニヤミンとルベンの子エノクは手兵50騎を引き連れて◯の西面に出陣し、エドムとホリ人の中から屈強の兵400を倒した。600は敗走した。

 

 エサウの子4人もアドラムにある丘に倒れた父の屍をそのままにして一緒に逃げた。ヤコブの子等は彼等をセイルの山地まで追撃した。ヤコブは兄をアドラムにある丘に埋葬して家に引き上げた。ヤコブの子等はセイルの山道でエサウの子等を散々悩ましたので、彼等もついに降参してヤコブの子等の奴隷となろうという事になった。彼等ヤコブの子等は父の所に使いを立てて、彼等と和を結ぶべきか、それとも殺してしまうべきか伺いをたてた。ヤコブからは彼等と和を結ぶよう伝えてきたので、彼等は和を結び、隷徒の軛を彼等にかけ、ヤコブとその子等に一生貢を納めさせることにした。

 

 彼等はヤコブがエジプトの地へ下る時まで貢をヤコブに納め続けた。エドムの子等はヤコブの12人の子等からかけられたこの隷徒の軛から逃れられないまま今日に至っている。

 

……(略)

 

 

第39章

 

 ヤコブは父の居留地、カナンの地に住み着いた。ヤコブの来歴は以下の通りである。

 

 ヨセフは17歳の時にエジプトへ連れてこられたのを、パロの宦官で厨房の頭のポテパルが買い取った。彼がヨセフに屋敷の一切の切り盛りを任せたところ、ヨセフのお陰で主の祝福がこのエジプト人の家に臨み、彼が何をしても主がそれを成功に導かれた。エジプト人はもはや万事をヨセフに任せた。主が彼ヨセフと共におられ、ヨセフがすることは何事も成功に導かれるさまを見たからである。

 

 ところでヨセフは美男子で、ほれぼれするような男前だった。そこで彼の主人の奥方がヨセフに眼をつけ、惚れこんでしまい、自分と寝てくれとせがんだ。しかし彼は魂を彼女に売り渡すことはせず、主のことを思いアブラハムの言葉の中から父ヤコブがよく読んで聞かせてくれた言葉を思った。

「何人も他人の妻、人妻と姦淫してはならぬこと、そういうことをする者に対しては天のいと高き主の御前に死罪が定められており、そういうものに対しては絶えず主の前で永遠の書に罪が記録されるであろう」と。

ヨセフはこのことを思い、彼女と寝るのを拒んだ。彼女は一年間せがみ続けたが、彼ははねつけ、彼女に耳を貸そうとはしなかった。しかし彼女は無理強いしてでも自分と寝させようと思って、門を閉めておいてから彼を邸内ではがいじめにした。しかし彼は彼女に手を振りほどき、自分の着物を彼女の手に残したまま閂(かんぬき)をぶち壊して屋外へ逃げた。

 

 女は彼が自分と寝てくれそうもないと見るや、今度は彼のことを夫に向かって中傷して言った。「あなたのお気に入りのへブル人の用人は力づくで私と寝ようとしました。私が声を上げますと、掴んでいた私の手に着物を残したまま閂を壊して逃げて行きました。」エジプト人はヨセフの着物と壊れた閂を見、妻の言うことを聞き入れて、王が投獄することにした人間が幽閉される牢にヨセフを放り込んだ。

 

 ヨセフは、その牢獄に居た時、主のお陰で獄の看守の好意を得、その恩寵にあずかるようになった。彼、看守長は、主がヨセフと共におられ、何をしても主が成功に導かれるのを見たからである。看守長は一切を彼の手に任せ、何事にも関与しなかった。ヨセフが何をやり始めても主が完成されたからである。彼はそこに2年居た。

その頃エジプト王パロは彼の2人の宦官で酌取りの長と膳夫(かしわで)の長に腹を立てて厨房の頭の屋敷内の牢でヨセフが幽閉されている牢に放り込んだ。牢獄の看守長はヨセフに彼等の世話を命じたので、彼は彼等の世話にあたった。

 

 酌取りの長と膳夫の長は2人共夢を見、それをヨセフに語った。彼が彼等にその夢を解いてやったその通りになった。すなわちパロは酌取りの長は復帰させ、膳夫の長は殺した。ヨセフが彼等に解いてやった通りだった。しかし酌取りの長は、自分の身に起きるであろうことを教えてもらっていながら獄にあるヨセフのことを失念してしまって、ヨセフから頼まれたようにパロに取り次がなくてはならないことを思い出さず、忘れてしまっていた。

 

 

 

◆補足文( 創世記21:1のアブラハムの子、イサクの誕生から、ヤコブの子孫までの「旧約聖書」の物語について、新約聖書」のローマ人への手紙9:6~17より言及がなされています。『 さて、神の言葉が地に落ちてしまったわけではない。なぜならば、それらイスラエルから出た者すべてがイスラエルであるわけではなく、アブラハムの子孫がすべて、その子供達であるわけでもないからである。むしろ、「あなたにとっての子孫は、イサクにおいて召し出されるであろう。」このことは即ち、肉の子供達そのものが神の子供達なのだというのではなく、むしろ約束の子供達が子孫と認められるのだ、ということを意味している。アブラハムに与えられた約束の言葉とは、次の通りだからである。即ち、「その時節に、私は来るであろう。そしてサラに息子が生まれるであろう。」それだけではなく、私達の父祖イサクという一人の男性によって妊娠したリベカもまたそうである。なぜならば、まだ双子の子供達が生まれてもおらず、善いことも悪いことも何もしてはいない時に、選びによる神の計画が存続するためにしかも業によってではなく、むしろ召した方によってそのように成されるために、彼女には次のように言われたからである。即ち、「兄は弟に隷属するであろう。」と次のように書かれている。「わたしはヤコブを愛した。しかしエサウを憎んだ。」では私達は何と言うのであろうか。神には不義があるのではないかとでも言うのか。断じてそんなことはあってはならない。なぜならば、神はモーセに対して次のように言われているからである。「わたしは、わたしが憐れもうとする者を憐れむであろうし、わたしが慈しもうとする者を慈しむであろう。」それ故に、これは意思する者や努力する者によるのではなく、むしろ憐れむ神によるのである。事実、聖書はエジプトのファラオに対して次のように言っている。「わたしはまさにこのことの為にあなたを立てた。即ち、あなたのうちにわたしの力を示すために、そしてわたしの名が全地で告げ知らされるために。」それ故に神は、自ら欲する者を憐れみ、自ら欲するものを頑なにされるのである。 』

……とあります。ちなみに、「新約聖書翻訳委員会訳」の解説によれば、この「ローマ人への手紙」の文章は使徒パウロ自身が設立したわけではない教会に宛てて、彼が書いた現存する唯一の手紙である。とされています。)