〖呼びかける〗
第14章
シオン山上の小羊とその信従者達
また私は見た。
すると小羊がシオンの山の上に立っていたではないか。
小羊と共に、14万4000人の人々も立っていたが、
その人々の額には小羊の名前と小羊の父の名前とが書かれていた。
また、私は大水の轟きのような、
また激しい雷鳴のような声が天から響いて来るのを聞いた。
私が聞いたその声は、竪琴を奏でる人達が
自分達の琴をかき鳴らしつつ歌う歌声にも似ていた。
彼等は玉座の前で、また4匹の生き物と長老達との前で、
新しい歌のようなものを歌っている。
その歌は地上の世界から※①贖い出された14万4000人の人々の他は、
誰一人として※②歌うことが出来なかった。
「これらの者達は、※③女と交わって身を穢したことのない人々である。
彼等は童貞を保っていたからである。
これらの人々は、小羊が何処へ行こうと、
小羊に付き添って行く従者達である。
これらの人々は、※④神と小羊とに捧げられる初物として、
人間の中から贖い出された者達である。
彼等はかつてその口に嘘がのぼるのを聞かれたことはなかった。
※⑤彼等は非の打ちどころのない者達である。」
◆補足文
(解説より※①贖い出された…神によって、神に敵対する諸力の支配する地上から救い出されたという意味。
※②歌うこと…直訳すると「学ぶ」、口語訳、新共同約は「覚える」。「歌を学ぶ」とは、歌の歌詞と旋律を理解して、自分でも歌うことが出来るという意味。新しい歌は救済の賛歌であるから、この歌を歌えることは、救済された者であることを意味する。
※③女と交わって身を穢したことのない人々…「身を穢す」の動詞が、性交渉一般を指す例はなく、ここでも、それは性的不道徳を意味しているか、あるいは旧約聖書の伝統に従って、霊的姦淫と解釈された「偶像崇拝」を意味している、と理解すべきである。
救われた者達全体が「童貞」であるとの表現は、救済される者は男に限られると考えるのでなければ、先の「女と交わって身を穢したことのない」と共に、「純粋な信仰生活を送った」という比喩的な表現として理解するほかない。
※④神と小羊とに捧げられる初物…若干の写本は「初めから」つまり、世界創造の時からと読む。この場合、世界の存在を前提とする「人間の中から」と適合しない。
「初穂・初物」<出エジプト23:19><ヤコブ1:18>参照。は、最初の収穫物を意味するから、14万4000人を世界救済の第一歩とする、全人類の救済の望みをここに読み取る解釈もみられる。
※⑤彼等は非の打ちどころのない者達…「傷のない」という語で、旧約聖書では祭儀で捧げられる犠牲獣の条件、また聖なる職務を執行する祭司の条件でもあった。<レビ記21:17以下>。「捧げられる初物」という祭儀的用語が直前に出る。ただし、新約聖書においては「非の打ちどころのない」という論理的・宗教的な意味で一般的に用いられることが多い。)
審判の時を告げる3人の天使
私はまた、※⑥もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。
その天使は、地上に座っている人々に、
すなわち、あらゆる民族と部族と
国語の違う民と国民とに告げ知らせるために、
永遠の福音を携えていた。
彼は大声で言った。
※⑦「神を畏れよ、神の栄光を称えよ。
神の裁きの時が来たからだ。
天と地と海と源泉とを造られた方を礼拝せよ。」※
別の、第二の天使が続いて言った。
※⑧「倒れた、倒れた、かの大バビロンが。
自分の、淫らな激情を呼び起こす淫行の葡萄酒を、
あらゆる民族に飲ませた、かの都が倒れた。」※
もう一人別の、第三の天使が先の二人に続いて大声で言った。
「誰でも、獣と獣の像とを礼拝し、
その額か手にこの獣の刻印を受けているならば、
その者は、※⑨神の怒りの盃に水を混ぜて薄められないままに注がれた、
※⑩神の激情の葡萄酒を飲むことになり、
また聖なる天使達と小羊とが見守る前で、
※⑪硫黄の燃え盛る炎に苦しめられることになる。
彼等を苦しめる煙は世々永遠に立ち上り、
獣と獣の像とを礼拝する者達、
それに誰でも、その名前の刻印を受けているなら、
その者達は、昼も夜も安らぎを持つことはない。
ここに、聖徒達、すなわち、
神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者達が、
現在の患難を忍耐すべき必要がある。」
また私は、天から声がして、こう言うのを聞いた。
「書け、『今から後、※⑫キリスト者として死ぬ死人達は幸いである』と。」
霊も言う。
※⑬「その通りだ。彼等は、労苦から解き放たれて安らぎを得るように。
彼等の行ったことが神の審判の場まで彼等に付き従うのだから。」※
◆補足文
(※⑥もう一人の天使…直前に「天使」の記述がないから、この表現は不自然である。解釈の試みは多数みられるが、文献からすれば、小羊=人の子のような者、を天使的な存在として、それとは別の「もう一人」の意味とするのがもっとも自然である。
※⑦「神を畏れよ、神の栄光を称えよ。~造られた方を礼拝せよ。」…3つの勧告はいずれも継続的な日常の行為ではなく、神の裁きを目前にした、今ここで為すべき行為として勧告されている。これらの勧告が「福音」、つまり喜ばしい知らせであるのは、神の裁きの時(それは信徒にとっては、救済の時である。)の到来を前提とするからである。
※⑧「倒れた、倒れた、かの大バビロンが。~かの都が倒れた。」…<イザヤ21:9>参照。直訳すれば「激情の、不道徳の葡萄酒」。黙示録では、12:12を例外として、「激情」は神の怒りを意味するから、「激情」を抱く者は人間ではなく神と理解して、「神の激情を呼び起こす、淫らな行為の葡萄酒」と訳すことも可能である。
※⑨神の怒りの盃に…<イザヤ51:17、エレミヤ25:15>参照。
<エレミヤ25:15>
まことにイスラエルの神、ャハウェは、私にこう言われた。
『この憤りの葡萄酒の盃を、わたしの手から取り、このわたしがあなたを遣わす全ての国々に、これを飲ませよ。彼等は飲み、ふらつき、わたしが彼等の間に送る剣を目の当たりにして、気が狂う。』
このエレミヤ書のように、よろめき、倒れさせるという酒の効用は、神罰のイメージと重なり、神が罰として葡萄酒を人に飲ませるという表象が旧約聖書、特に預言者の象徴的イメージに、しばしばみられる。
※⑪硫黄の燃え盛る炎…8節の「激情」と因果応報の対応がある。直訳は「火と硫黄とによって」。瞬間的であれ、永続的にであれ、火によって焼かれるというのは、旧約聖書以来の伝統的な神罰の表現。
※⑫キリスト者として死ぬ死人達…直訳は「主にあって死ぬ」口語訳。19「イエス・キリストのうちにあって」を参照。人は地上の生を離れても、すぐに最終的な運命が決定されるのではなく、最後の審判までの期間待たなければならない。この状態にある者達が「死人」と呼ばれる
※⑬「その通りだ。彼等は、労苦から解き放たれて安らぎを得る~付き従うのだから。」…「信徒としての労苦」、それゆえ、迫害の只中で信仰を貫いたために受けた肉体的、または精神的な苦労の全体。キリスト者として生涯を貫いた者は、この最後の審判において報償を受けるような行為を行ったはずである。それゆえ、彼等は審判を報償の機会として、その到来を安堵して待つことができる。)
二種類の収穫
また、私は見た。
すると白い雲があり、
その雲の上に、人の子のような者が座っていたではないか。
その者は頭に金の冠を戴き、
※⑭手には鋭い鎌を持っていた。
そして別の一人の天使が神殿から出て来て、
雲の上に座っている者に大声で叫んだ。
「あなたの鎌を入れ、刈入れて下さい。
地上の穀物は実りきって、刈入れるべき時が来ましたから。」
そこで、雲の上に座っていた者は、
自分が持っている鎌を地上に投げ入れ、
地上の収穫は刈入れられた。
また、もう一人の天使が天にある神殿から出て来た。
その天使も鋭い鎌を持っていた。
さらにもう一人、※⑮火を自由に扱う権能を持っている天使が祭壇から出て来た。
この天使が大声で、先の鋭い鎌を持っている天使に向かって叫んだ。
「あなたの鋭い鎌を入れ、地上の葡萄の房を刈り集めよ。
葡萄の実は十分熟しているから。」
そこで、その天使は彼の鎌を地上に投げ入れ、
地上の葡萄を刈り集め、神の激情の巨大な酒船の中に投げ込んだ。
※⑰その酒船は都の外で踏まれた。
すると、酒船からは血が、馬どものくつわに達する深さまで、
1600スタディオンにわたって、流れ出た。※
(※⑭手には鋭い鎌…鎌は終末審判としての収穫の為の道具。
※⑮火を自由に扱う権能を持っている天使が祭壇から出て来た。…祭壇は信仰ゆえに殺害された信徒達の復讐を求める叫びや、聖徒達の祈りと結びついている。それゆえ、この表現によって、後文の葡萄の収穫はこれらの信徒の願いに応える出来事であることが暗示されている。
※⑯酒船は都の外で踏まれた。~流れ出た。…「都の外で」というのは、天から降った聖都エルサレムは、救われた者達のみが入ることの出来る神の救済が実現する場所と考えられているからである。ここで馬に言及されることは唐突に響くが、「酒船」が言及されるもう一つの箇所19:15では、天の軍勢を従える白い馬に乗った者がこれを踏む。20節で既に、19:1以下に記されるような終末時の戦いがイメージされているのであろう。
1600スタディオンは、約300㎞。おそらく、「4の数」を400倍にして作られた、全世界を表わす象徴的数字。)
第15章
モーセと小羊の歌
また私は、天にもう一つの大きな、そして驚くべき徴を見た。
それは最後の7つの災いを携えている※⑰7人の天使であった。
なぜなら、これらの災いでもって、
神の激情がその頂点に達して終えられるからである。
また私は、※⑱火の混じったガラスの海のようなものを見た。
このガラスの海のほとりには、
※⑲かの獣と獣の像と獣の名前を作り上げる数との戦いに
勝利した者達が、神の竪琴を抱えて立っていた。
これ等の者達は神の僕であるモーセの歌と小羊の歌を歌っている。
彼等はこう歌っているのである。※
「全能者にして神なる主よ、
あなたの御業は、偉大にして驚くべきもの。
諸民族の王よ、
あなたの道はいずれも義しく、また真実な道。
主よ、
誰があなたを畏れず、
あなたの御名を褒め称えないでおりましょうか。
なぜなら、あなたお一人だけが聖なる方であり、
すべての民族がやって来て、
あなたの御前にひれ伏し礼拝しますから。
あなたの正しい裁きが明らかにされたからです。」
◆補足文
(※⑰7人の天使であった。…災いを携えた天使達は5節で初めて神殿から出て来るのに、既にここで見られたと言うのは、この1節が15章全体の表題的性格の句として置かれているから。
※⑱火の混じったガラスの海のようなもの…「ガラスの海」は蒼穹であり、「火の混じった」とあるのは、そこに散りばめられた星や稲妻がイメージされたものか、あるいは神の憤りの象徴である。あるいは、次に「モーセの歌」とあるから、エジプト脱出時の紅海を連想させ、小羊による新しいエルサレムへの渡海が暗示されている可能性もある。
※⑲かの獣と獣の像と獣の名前を作り上げる数~抱えて立っていた。…15:2~4節は、天において勝利に喜ぶ殉教者達の予備的幻。この3重の列挙は、13章で記された、信仰者に対する迫害の根源に対応している。それゆえ、これらに勝利した者達とは殉教者を含んだキリスト者一般である。すなわち、神から与えられた「竪琴」については、5:8の注10を参照。
15:2~4節は、1節の表題句が提示したテーマの展開を中断する形で、敵対者達に対する神の裁きの賛美として、キリスト者達による天上における賛歌が記述される。それによって、5節以下で展開される災いが、神に敵対する者達にとっては破滅であるが、キリストへの忠誠を殉教するまで貫く信仰者たちにとっては祝福に満ちた勝利であることが示唆される。
「神の僕であるモーセと小羊の歌」、<出エジプト15:1~1>参照。イスラエルのエジプト脱出に際して、これを追跡するエジプト軍を神が滅ぼした紅海の奇蹟の直後に、神が下したこの裁きを称えて、救済されたイスラエルが歌った歌。
以下に一つの歌しか紹介されていないとすれば、3~4節を第二の歌とするよりは、先の「モーセの歌」と同じ歌が考えられているとするのが自然。モーセおよび小羊によって歌うことが可能とされた、神を賛美する歌という意味。)
七つの平鉢の7つの災い
その後、私が見ていると、天にある証の幕屋の神殿の扉が打ち開かれた。
そしてその神殿から、7つの災いを携えている7人の天使達が、
清い、光り輝く亜麻布を身にまとい、
胸には金の帯を締めた姿で出て来た。
※⑳4匹の生き物のうちの1匹が、
世々永遠に生きる神の激情で溢れんばかりの七つの金の平鉢を、
これらの7人の天使達に与えた。
すると、神殿は神の栄光と神の力から※㉑立ちのぼる煙で一杯になり、
7人の天使達の携えた7つの災いが終えられてしまうまでは、
誰一人として、神殿に入ることが出来なかった。※
(※⑳4匹の生き物…神の玉座を守っている、神に最も近い位置にいるから、この詳細は、以下の災いが神意に発することを示唆する。
※㉑立ちもぼる煙で一杯になり~出来なかった。…<イザヤ6:4>参照。神顕現の徴の一つ。聖なる存在である神そのものは、世俗世界から覆い隠されねばならないと考えられたため。神の臨在が人を寄せ付けないことについては、<出エジプト40:35>他。)