tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

魔術 8.

【魔術】

 

 

 

 『ピカトリクス』第Ⅲ書に入る前に、星座の起源について、そのはじまりは、カルデア人からであるという説について話していきます。

『聖書大辞典』では、カルデア人については次のように述べられています。

(一部抜粋)

 

 

 ● カルデア人

 

 本来的にはカルドゥの地に住む人々のこと。(前9世紀以降の起源に出る名前)

すなわち、南西メソポタミアに定住していた東方アラム系の諸部族を指しています。

歴史上重要な役割を果たしたカルデア人の一人に、メロダクバラダン(前721~700年頃)がいます。

また新バビロニア帝国のナボポラッサル(前626~605年)とその子孫がしばしば「ガラテア王朝」と呼ばれるが(バビロニアアッシリア)、楔形文書資料からは彼等がカルデア出身かどうか証明されない。

この呼称はベロッソスの報告からの推察に過ぎない。とはいえ、カルデア人バビロニア人とともに新バビロニア帝国の中核部分を形成していたことは確かである。

 

 旧約聖書では、カルデア及びカルデア人とはバビロニアの民のことを指しています。

 

 <創世記11:31、15:7>において、アブラハムの故郷が「カルデアのウルであった」という記述がありますが、これは歴史的には問題が多いことが分ってきています。歴史的意義をもつ記述は以下の<王列記・下>他になります。

 

 <王列記・下24:2>

「ャハウェは彼に対してカルデア人の略奪隊、アラム人の略奪隊、モアブ人の略奪隊、アンモン人の部隊を遣わした。」

(補足※この箇所においてのカルデア人の解説文は、原語カスティーム、ネブカドネザルはバビロンの王と呼ばれているが、その民は「カルデア人」と呼ばれている。

<エレミヤ37:5参照>新バビロニアの史料では彼等はアッカド人、すなわちバビロニア人と呼ばれている。とあります。)

 

 イラン(ペルシャ)の王達は単純にカルデアの王達の後継者と見なされていました。

<ダニエル9:1>において、ギリシャ人にとってもカルデア人はもっぱらバビロニア人のことあり、クロス(キュロス)以降ペルシャ人の侵入があっても、そう呼んでいました。

 

 ペルシャおよびヘレニズム時代には天体占いとその類がしばしば宗教混合(シンクレティズム)を起こしていたバビロニアに由来したこともあって、

カルデア人とは占星術師、預言者、呪術師の代名詞でもありました。

<ダニエル2:2参照>

 

 古代のラビ・ユダヤ教の教師やキリスト教父には聖書のアラム語ユダヤ教で用いられたアラム語カルデア語と呼ばれました。

 

 

 

 

 次に、『星座の発祥/古代カルデアの羊飼い説』www.hal-astro.comyより引用します。

 

 

 ●『星座の発祥/古代カルデアの羊飼い説』

 

 星座の起源は、古代メソポタミアに住んでいた「カルデアの羊飼いたちが考案した」と、多くの書物に記載されています。しかしこれは誤りで、「紀元前3千年頃から古代メソポタミア地域で徐々に発生した」とすることが適切です。カルデアの羊飼い説は、野尻抱影氏の著作が情報紀元となっており、おそらく日本のみで流布されています。

 

 カルデア人メソポタミアの碑文の中に初めて登場するのは紀元前9世紀頃で、シンバビロニア王国を建国したのは紀元前625年です。これは古代メソポタミアの末期ですので、2千年以上も時代が異なります。

R・Hベーカーによる「星座の紹介」(初範1937年)には、『現在に通じる星座の成立は、紀元前3千年頃、チグリス・ユーフラテスや周辺に住む羊飼い、砂漠の遊牧民、海人、学者等により作られていった。』とあり、羊飼いに限定していません。

 

 3前年頃、メソポタミアに住んでいたのはセム系民族のシュメール人アッカドです。ブリタニカ交際百科事典によると、『彼等は恒星全体を「天の羊群」と呼び、太陽は「置いた羊」、七つの惑星は「老いた星」であり、星にはみなる「羊飼い」がついていると考えていた。』とされており、これにも「羊飼いが作った」とはされていません。「羊飼い」はあくまで星空にあるものだったのです。

 

 

 

 

 

◆補足文

(つまり、ここで何が言いたいのかというと、

世間ではアブラハムがウル出身であったから、アブラハム占星術の始祖なんだ、などというとんでもないことを流布しているものがあるのです。

しかし、それはまったく間違いだという事です。

占星術の始まりは、バビロニア人であり、それがアッカド人、元々のカルデア人でもあるということです

○○人と次々と名称が変化するので混乱してしまいますが、セム系の起源がアブラハムだからといって、旧約聖書通りに、たとえアブラハムがウル出身であったとしても、アブラハム=魔術・占星術の始祖などという「嘘の史実」には騙されてはいけません。)

 

 

 

 

 『ピカトリクス』第Ⅲ書を先に書きたいのですが、すみませんカルデア人の説明つながりから、少し先取りして第Ⅳ書の一部を引用します。

 

 

 『ピカトリクス』(引用)

 

  第Ⅳ書

 

 第3章

 カルデア人たちは深みから何をとりだしたのか、あるいはこの知識の秘鑰の数々およびこれに関して何が語られてきたのかについて説かれる。

 

 

 1,

 この業の知識と実修に執心したのはカルデアのマギ達であり、彼等こそこれに関する知識を完成した者達だった。彼等によれば、まずはじめヘルメスは像の館(「諸星座の宿をさだめ」)を造り、これをもってナイルの水量と月の山の関係(ナイル川の水量の月の巡りとの関係)を知ることとなった。

そしてここに太陽の宿をさだめた。また彼を見るに相応しい者が誰もいなかったので、人々から身を隠すこととなった。彼こそエジプト東12マイルのところに町を創建した者で、その内に4面に4つの門扉のある城を築いた人だった。その東門には鷲の像を、西門には雄牛の像、南には獅子の像、北には犬の像を据えた。そこに入ることが許されたのは霊的な者達だけで、彼等は声を投げかけ語り合い、彼等の推挙なしには他の誰もその門をくぐることも出来なかった。

(解説:それらの像には生きた霊が宿っており、いずれかの像に近づく者があると、それらは語りだし、恐ろしい騒音をあげたので、怖れて誰もそれに近づかなかった。誰か官史の仲立ちなしには。)

 

 そこには数々の樹木が植えられ、その中央にはひときわ大きな樹木があって、ここにはあらゆる類の果実稔っていた。

またその城の上には高さ30キュービットの塔が設けられ、その頂には円い球が据えられた。これの色は7日間毎日変じ、7日が過ぎるとその色は元に戻った。この町もまた毎日この球の色で覆われ、町は毎日その色に輝くのだった。

 

 この塔の周囲には水が溢れており、そこには様々な種類の魚がいた。町の周りには種々様々な像が飾られており、これらの得能により住民達は高徳を守り、卑劣さや邪悪さを免れていた。この町はアドセンティと呼ばれ、その住民達は古人達の知識を受け継ぎ、天文学的知識ばかりか深く様々な秘鑰に通暁していた。

 

 

 

 2,

 わたしはまた人から見えなくする処方についての文書を目にした。これを再現しようと欲するなら、アラビア人達も月の24番目の夜に兎を用意し、月を眺めつづけながら、これの首を刎ねる。そして月に向かって薫香しつつ、上述した月への祈願の詞を唱え、続けて

「汝、降霊術の不可視の霊の天使、汝、サルナクティと呼ばれる者よ、汝の様々な潜在力に帰される物事にわたしが祈願するところをかなえ、汝の力能と潜在力と堅牢な力がこの業に寄してくれるよう請願する」と唱える。

 

 続いて上述した兎の血と胆汁を混ぜる。そしてそのからだ(コルプス)は誰にも見えないように埋める。もしもこの時から翌日、つまり太陽がこれの上に昇るまで剥ぎ出しにしておくなら、月の霊があなたを滅ぼすことになろう。

そして胆汁と混ぜた血を実修に用いるまで保管する。あなたが身を隠そうとし、誰にも見られたくない時、胆汁と混ぜたこの血を月の刻に取り出し、これをあなたの顔に塗り、上述した月の詞を唱える。あなたがこれを唱える間、他人の目にあなたは全く見えなくなり、このように為すことでそのような効果が生まれる。

目に見えるようになりたければ、その詞を唱えるのを止め、あなたの顔を洗い、先述した兎の頭から取った脳をそこに塗り、

「汝、月の霊よ、わたしを顕し、人々にわたしの姿が見えるようにせよ」と唱える。

するとたちまちあなたは誰からも見えるようになる。これが月の業であり、大いなる秘鑰にして深甚(しんじん)なる知識とみなされるものの一つである。