tekuteku-tekutekuの日記

聖書研究と陰謀論

ヨハネの福音書 3.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

3.

 

 

 

 ニコデモとの対話および著者の考察

 

 ファリサイ派に属する一人の人がいた。

その名は※①ニコデモユダヤ人達の指導者であった。

この人が夜、彼のもとへ来て、彼に言った。

 

 「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師であることが私には分かっています。

あなたのなさっているこれらの徴は、神が共におられなければ、

誰一人なしえないからです。」

 

 イエスは答えて言った。

「アーメン、アーメン、あなたに言う。

人は上から生まれなければ、神の王国を見るこてはできない。」

 

 ニコデモが彼に向かって言う。

「人間が年老いていながら、どのようにして生まれることができるでしょう。

自分の母親の胎内にもう一度入り、生まれて来ることができるというのですか。」

 

 エスは答えた。

「アーメン、アーメン、あなたに言う。

※②人は、水と霊によって生まれなければ、神の王国に入ることはできない。

肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である。

『あなた方は上から生まれなければならない』

とあなたに言ったからといって驚くことはない。

風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く。

しかし、それがどこから来てどこに往くのかは分からない。

霊から生まれている人は皆このようである。」

 

 ニコデモが答えて彼に言った。

「どのようにしてそれが起こりうるのでしょうか。」

 

 エスは答えて彼に言った。

「あなたはイスラエルの教師ではないか。それなのにこれを知らないのか。

アーメン、アーメン、あなたに言う。

われわれは分かっていることを語り、見てきたことを証している。

しかしあなた方は、われわれの証を受け入れようとしない。

わたしが地上のことを話したのに、あなた方が信じないとすれば、

将来天上のことを話ても、果たして信じるようになるだろうか。

天から降った者、すなわち人の子の他には、

天にのぼっているものは誰もいない。

モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子は挙げられなければならない。

信じる人が一人残らず、彼のうちにあって永遠の命を持つためである。」

 

 つまり、神はひとり子を与えるほど世を愛したのである。

彼を信じる人が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためである。

 

 つまり神が子を世に遣わしたのは、世を審くためでなく、

世が彼を通して救われるためなのである。

彼を信じる人は審かれない。

だが、信じない人は既に審かれている。

神のひとり子の名を信じていないからである。

 

 光が世に来ているのに、自らの業が邪悪だったため、

人々が光よりも暗闇を愛したこと、これが審きである。

悪いことをしている人は皆、光を憎み、

自分の業が暴かれないよう、光のところに来ようとしないからである。

 

 だが、真理を行っている人は、

自分の業が神のうちにあってなされてきたのだということが

あらわになるため、光のところに来る。

 

 

 

❖補足文

※①ニコデモ…解説にはないですが、このニコデモという人は後の章でも登場してくる、ここに説明されている通り、ファリサイ派に属する人物でありながら、イエスを擁護し続ける良い人です。

※②人は水と霊によって生まれなければ~霊から生まれた者は霊である。…これは、キリスト教の聖書解釈がその教会や、教師達によってもなかなか一致しない解釈がされているのですが、よく言われているのが、「これは、最初にヨハネがイエスを河の水で清めた儀式、バブテスマのことを言っている。」とか、「水は母親の羊水のことを指していて、人間が生まれる時には羊水の水と、神の霊によって生まれるのだからそのことを指している。」とか言われています。私も迷って色々調べてみましたが、ある方の解釈『Got  Questions』が最も近い回答なのではと思い、ちょっと長いのですがそれを紹介します。

 

■ Got Questions さんより抜粋

 

「水と御霊によって生まれる」がバブテスマのことではないなら、伝統的な言葉の意味は2つの解釈があります。

第一は”水によって生まれる”を、イエスは肉体的に生まれること(水は子宮の中で赤子を取り巻く羊水のこと)として使われている。それから御霊によって生まれることは霊的に生まれることを示すとします。

確かに水によって生まれることの解釈として可能性はありますが、それにニコデモの人は”老年になって”どうやってまた生まれることができるかという質問から前後関係を考慮すると適切なようにも思えますが、この個所の前後関係を考えると最上の解釈ではありません、

結局イエスはここで自然に生まれることと霊的に生まれることとの違いについて論じられておられたのではありません。

エスがしておられたのは、ニコデモに、彼が”上から生まれる”または”生まれ変わる”(ボーンアゲイン)のことが必要だと説明されておられたのです。

 

 二番目によくあるこの個所の解釈は、全体的な前後関係、この個所だけでなく、聖書全体に最も適切なものは、”水と御霊によって生まれる”という言い方を同じ霊的出生の違った局面を述べている、または”再び生まれる”または”上から生まれる”とはどういう意味かを説明していると見るのです。

だから、イエスがニコデモに「水と御霊によって生まれなければならない」と言われた時、イエスは文字通りの水(例えば、バブテスマの水や羊水)について言われたのではないのです。そうではなく、新生する霊的な清めの必要性のことを言われたのです。

旧約聖書詩編51:2・7><エゼキエル書36:25>新約聖書ヨハネ13:19・15:3><第一コリント6:11><へブル書10:22>を通して見ると、水はしばしば、比ゆ的に霊的清め、または、救いの瞬間に御言葉を通して起こる聖霊による新生の事に使われています。<エペソ5:26><テトス3:5>

 

 だから、この節に出て来る水は文字通りの水ではなく、ヨハネ4:10で井戸端の女性にイエスが約束された”生ける水”、<ヨハネ7:37-39>でエルサレムの人々に訳された”生ける水”のことなのです。

それは、死んでいた罪人に霊的命を与える聖霊による内側の清めと新生のことなのです。<エゼキエル36:25ー27><」テトス3:5>

エスヨハネ3:7で「人は新しく生まれなければならない、この新しい命は聖霊によってのみ生み出される」と言い換えられた時、イエスはこの真理を強調されたのです。

 

 ”水と御霊によって生まれる”という言い方の解釈としてこれが正しい理由がいくつかあります。

第一に、”もう一度”と訳されているギリシャ語には2つの意味が可能であるということに注目すべきです。最初の意味は”再び、もう一度”で二番目の意味は”上から”です。

ニコデモは明らかに最初の意味にとってその考えは理解できないと思いました。だからニコデモは、「どうやって老年になって、母の胎に入ってもう一度生まれることができるだろうか」と理解に苦しんだのです。

それで、イエスはニコデモに言われたことを違う方法で言い換えられたのです。

”上から生まれる”ことも、”水と御霊によって生まれる”ことも同じことを2つの方法で言われたのです。

 

 二番目に、この節のギリシャ語文法に注意することが大事です。

”水によって生まれる”と”御霊によって生まれる”はある一つの考えであって2つの考えではないことを示しているように思えます。だからニコデモが間違って考えたように2つの違った誕生ではなく、一つの誕生、つまり、”上から生まれること”、または、”神の国を見る”ためには誰でも霊的に生まれる必要があることを言っているのです。

人がもう一度生まれる、または霊的に生まれる体験をすることが必要だということが非常に重要なので、イエスはニコデモにこの個所で3回もその必要性について述べておられます。<ヨハネ3:3,5,7>

 

 三番目に、水は聖書では信者を清める聖霊の働きの事を象徴してしばしば使われています。それによって神は信者の心と魂を洗い清めてくださるのです。旧約でも新訳でも聖霊の働きは水と比較されています。<イザヤ44:3><ヨハネ7:38.39>

 

 ヨハネ3:10でイエスはニコデモを「あなたはイスラエルの教師でありながらこういうことが分からないのですか?」と責められます。これによると今ニコデモにイエスが言われたことはニコデモが既に旧約聖書から知って、理解しているべきことのように思えます。

旧約聖書の教師としてニコデモが知り、理解しているべきこととは何だったでしょう?それは、旧約聖書で、神が約束された時が来ること、

「わたしが清い水をあなた方の上に振りかけるその時、あなた方はすべての汚れから清められる。私は全ての偶像の汚れからあなた方を清め、あなた方に新しい心を与え、あなた方のうちに新しい霊を授ける。」<エゼキエル36:25-27>

旧約聖書で新しい契約<エレミヤ31:33>に関する鍵の一つとなる個所をニコデモが思い出さず、また理解していなかったのでイエスは彼を責められたのです。

ニコデモはこのことを期待しているべきでした。旧約聖書のどこにもバブテスマについては述べられていない事実を考慮すると、なぜイエスはニコデモをバブテスマについて理解していなかったことを責められたのでしょう?

 

 

 というところまで、紹介させていただきました。

この個所は聖書対話の中でも非常によく出てくる言葉ですし、深い解釈が必要です。)

 

 

 

 

 

 ヨハネの証、および著者の考察

 

 その後、イエスは弟子達とユダヤの地に来た。

そして彼等と共にそこに滞在し、洗礼を授けていた。

ヨハネもまたサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。

つまりヨハネはまだ投獄されてはいなかったのである。

 

 さて、ヨハネの弟子達の中で、

一人のユダヤ人との間に清めについて論争が起こった。

彼等はヨハネのところに来て、彼に言った。

 

 「ラビ、ヨルダン河の向こうであなたと一緒にいた人、

あなたが証なさった人、ご覧下さい。

あの人が洗礼を授けており、皆があの人の方へ行ってしまいます。」

 

 ヨハネは答えて言った。

「人間は天から自分に与えられているのでなければ、

何一つとして受けることはできない。

私が『自分はキリストではなく、

あの人の前に遣わされたのだ』と言ったことは、

あなた方自身が私のために証してくれることである。

 

 花嫁を娶るのは花婿である。

花婿の友は立って彼の声を聞き、花婿の声ゆえに喜びに喜ぶ。

だから、この私の喜びは満ち溢れている。

彼は大きくなり、私は小さくならなければならない。」

 

 上から来る人はすべてのものの上にある。

地からの人は地からのものであり、地の視点から語る。

天から来る人はすべてのものの上にあり、

見てきたこと、聞いたこと、これを証している。

しかし彼の証を誰も受け入れようとしない。

彼の証を受け入れた人は、神が真実の方であると確証した。

神が遣わした人は神の言葉を語っているからである。

神が霊を限りなく与えているからである。

 

 父は子を愛している。

そして、すべてその手に与えている。

子を信じる人は永遠の命を持っている。

だが、子に従おうとしない人は将来も命を見ることがなく、

神の怒りがその上に留まっている。

 

 

 

 

 

 

 悪いことをしている人は皆、世の光であるイエスを憎み、彼の所へ来ようとしない。

自分達の悪い業が神の御前で明るみになるのを恐れるから。

あいつらは、世の光が「ルシファー」と声高に宣伝しまくっています。

「666」は実はスピ的には素晴らしい数字で、ラッキーナンバー(エンジェルナンバー)なんだと言っています。

「111」も「123」もラッキーナンバーになっています。

じつは、「111」は「666」と同じ意味だし、「123」は足すと6なんで、

これもいい数字並びではないのです。

世を信じて、世が声高に宣伝することを何でも信じる人は滅びの道を歩んでいます。

例えば、『やりすぎ〇〇伝説』を丸のみしてる人達は大馬鹿です。

ユーチューブで更なる解説を得意げにやっている人達は気の毒になります。

聖書を何一つ勉強もせず、神の事を何も知らずによく「死海文書」がどうのこうのと言えるものだと思います。

最後にピラミッドと神話と宇宙人説、もう定番にしてますが、まじ笑えます。

どうしてあいつら側がそういう話をでっちあげているのか、そこにどういう意味があるのか、聖書を深く知っている人なら、あいつら側の言いたいことが分かるんです。

要するに全部、やりすぎ達が言っている、男女の神聖な”性崇拝”?

いいえ違います。神聖でもなんでもない反対の乱れた”SEX崇拝”なんですよ。

(この世の数多くの偶像崇拝の原点は”性崇拝”からきています。古代のエジプト、ギリシャ、ローマの社会の性事情は酷いものでした。あいつらが昔から愛してやまない神話や神々です。疑う人は調べてください。)

堕天使が最初にやらかした罪を崇拝してるわけです。

LGBTQも同じです。天使は性別がありません。それをバフォメットは両性具有の獣、人間とのキメラの姿であらわしています。これをやつらは神としているんです。

これは3つの意味があります。神への冒涜、人間に対する軽蔑、そしてその人間を自分達を神として崇めさせ、馬鹿にしながら可愛がること、この邪悪さです。

聖書を否定する学者は皆、あいつらの仲間です。有名大学の学者とか、何かしら肩書がつけられた学者でもあいつらの仲間ですから平気で嘘をつきます。信じてはいけません。神の怒りがその者達の上に留まっているということを信じましょう。(^^))

 

 

 

ヨハネの福音書 2.

ヨハネ福音書

 

 

 

 

2.

 

 

 

  カナでの最初の徴

 

 その3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があった。

エスの母がそこにいた。

エスとその弟子達もその婚礼に招かれた。

葡萄酒が切れてしまった時に、イエスの母が彼に言う。

 「あの方達に葡萄酒がありません。」

すると、イエスが彼女に言う。

 「女よ、それがわたしとあなたにとってどうしたというのです。

わたしの時はまだ来ていません。」

彼の母は給仕の人達に言う。

 「彼があなた方にどんなことを言っても、してやってください。」

 そこにはユダヤ人達が身を清める儀式のために石の水瓶が6つ置いてあった。

それぞれ2ないし3メトレテス(※1メトレテスが約39リットル)の容量であった。イエスが彼等に言う。

 「瓶を水で一杯にしなさい。」

そこで、彼等は口まで一杯にした。

彼等に言う、

 「今、それを汲んで世話役のところへ持って行きなさい。」

そこで彼等は持って行った。

世話役は、葡萄酒になっているその水を味見した時、

彼にはそれがどこから届けられたのか分からなかったが、

その水を汲んできた給仕の人達には分かっていた。

 

 世話役は花婿を呼びつけて彼に言う。

 「人は皆良い酒を先に出すものだ。質の落ちるやつは酔った頃に出すんだ。

お前ときたら、良い酒を今まで取っておいた。」

これをイエスは数多くの徴のはじめとしてガリラヤのカナで行い、

自分の栄光を顕した。そして彼の弟子達は彼を信じた。

 

 

 

 神殿の粛清

 

 ユダヤ人達の過越祭が近かった。イエスエルサレムにのぼった。

神殿境内に、牛や羊や鳩を売っている人々、また両替商が座っているのを見つけた。

そして縄で鞭を作り、羊も牛も皆神殿境内から追い出した。

また、両替商の金をまき散らし、台をひっくり返した。

そして鳩を売っていた人達に言った。

 「これらのものをここから取り去れ。

わたしの父の家を商売の家にするのはやめろ。」

エスが復活して後、彼の弟子達は

”あなたの家に対する熱情がわたしを食い尽くすだろう”

と書かれているのを思い起こした。

 

 するとユダヤ人達が答えて彼に言った。

 「このようなことをするからには、どんな徴を見せてもらえるのか。」

エスは答えて彼等に言った。

 「この神殿を壊してみろ。3日のうちに起こしてみせよう。」

そこでユダヤ人達は言った。

 「この神殿は46年もかかって建てられたのだ。

それをお前は3日で起こすと言うのか。」

彼は自分の身体という神殿について話していたのであった。

 

 彼が死人の中から起こされた時、

彼の弟子達は彼がこのことを言っていたのを思い起こした。

そして聖書とイエスの話した言葉を信じた。

 

 

 

 

❖補足文

(ここでは、イエスヤハウェの神殿において、その神殿境内で商売をしている者達に対し激しい叱責をしている様子が描かれています。

それは神の許しもなく、神の家の中で、冒涜に他ならない行為をユダヤ人達が行っていたからですね。しかも、それが大事な過越祭の日に行っていたのですから、イエスには余計許せないことでした。

そこで、イエスははっきりと、彼等に言い放ちました。

「わたしの父の家を商売の家にするのはやめろ。」と。

そして、このイエスの激しい怒りを、弟子達は後に

エスと同じ思いにかられることになるわけです。

そこで、”あなたの家に対する熱情がわたしを食い尽くすだろう。”

という、詩編69:10>の言葉を彼等は思い起こすのです。

この詩編は、旧約聖書に出てくるあのダビデの詩です。以下に紹介しますね。

 

 詩編69:9ー10>

 

 私はなりました、兄弟には疎まれる者、

母の子等にはよそ者に。

なぜなら、あなたの家への熱意が私を食らい、

あなたを嘲る者等の侮辱が私をおそったのです。

 

 

 この、”あなたの家への熱意”とは、当然、ヤハウェの神殿への熱意という意味で、

神を敬い愛する気持ちが、彼等への激しい怒りの感情になって私をおそったと言っています。弟子達にしてみれば、イエスの死後、特に伝道活動となれば、ヤハウェと神の子イエスの神殿となっているわけですからね。

 

次に、

「この神殿を壊してみろ。3日のうちに起こしてみせよう。」

彼は身体という神殿について話していたのであった。

彼が死人の中から起こされた時……

 

の説明はそのままですが、

実際、この場にいたふとどきなユダヤ人達が神殿を壊したとしても、

エスなら3日と言わず、直ぐにでも直すことが出来たでしょう。

解説でも『2重の意味をもった言葉で、「建てる」と「よみがえらせる」を言ったのだという。』となっております。

しかし、弟子達は、イエスが前もって死後3日で蘇ると預言していた通り蘇り、昇天したため、”身体という神殿”だと解釈したようです。)

 

 

 

 

 エルサレムの人々の奇蹟信仰

 

 過越祭の期間、祭りの間中、彼はエルサレムにいた。

その間多くの人々が、彼の行っていた徴を見て、彼の名を信じた。

が、イエス自身は自分を彼等に任せることはしなかった。

(新共同訳※彼等を信用されなかった。)

彼はすべての人を知っていたからであり、

人間について誰かに証してもらう必要がなかったからである。

つまり、彼は人間の中に何があるかを知っていたのである。

 

 

 

 

 

 第2章お届けしました。

 さて、現在までのこの世の世界ではどうかと言えば、

神社境内では、あらゆる神様グッズが売られており、それが神社の主な収入源となっております。それに有名な神殿なら、神殿の外でもお土産として普通にどこでも神グッズが売られていますよね。これは世界共通となっています。

つまり偶像崇拝の神々は、ヤハウェとは反対にこうしたことをわざとやらせて喜んでいるのです。

上記の、エスが神殿内で商売をしていた人々を追い払った場面の中で、

両替商が特に目を引きませんでしたか?

これって世の支配者層〇〇チャイルドの原点ともいうべき商売ですし、

サタンがこうした商売、つまり彼等をこの時から選んでいたのではないかと私的には思いましたが皆さまはどうでしょうか。

 

 

 

 

ヨハネの福音書 1.

ヨハネ福音書

 

 

 今回より、『ヨハネ福音書』の紹介をしていこうと思います。

福音書は、ヨハネの他に、マタイ・マルコ・ルカもありますが、個人的にヨハネが好きなので、こちらを選択しました。

まだ読んだことがなく、『福音書』に興味がある方はお読みくださいませ。

 

 

 

  ヨハネ福音書

 

 新約聖書翻訳委員会・岩波書店 / 小林 稔訳

 

 

 

  序  文

 

1.

 

 はじめに、ことばがいた。(またはあった。)

 ことばは、神のもとにいた。

 

(※ことば=天上界にいたイエスを指しています。)

 

 ことばは、神であった。

この方は、はじめに神のもとにいた。

すべてのことは、彼を介して生じた。

 

 彼をさしおいては、何一つ生じなかった。

彼において生じたことは、命であり、

その命は人々の光であった。

その光は闇の中にあって輝いている。

闇はこの光を阻止できなかったのである。

 

 

 神のもとから遣わされて、

一人の人が登場した。

その名はヨハネ

この人は証のため、

あの光について証するために来た。

すべての人が彼を介して信じるようになるために。

この人は光ではなく、

あの光について証するための人であった。

彼の証しようとした光が真の光であった。

それは、この世に来て、

すべての人を照らしている。

 

 

 その光であることばは世にあり、

世は彼を介してできたが、

世は彼を知るにいたらなかった。

自分の属するもののところに来たが、

彼に属する人々は彼を迎え入れなかった。

だが、彼を受け入れた人々、

彼の名を信じる人々には、

彼の子供達となる権能を与えた。

彼等は血統からでなく、

肉なる人の意思からでもなく、

男の意思からでもなく、

神から生まれたのである。

 

 

 ことばは肉なる人となって、

我々の間に幕屋を張った。

我々は彼の栄光を、

父から遣わされたひとりの子の

持つものとしての栄光を観た。

彼は恵みと真理に満ちていた。

 

 ヨハネは彼について証し、

次のように言って叫んだのであった。

 

 「私が

『自分の後から来ようとしている人は

私より優れたものとされている。

私よりも先にいたから』

と言ったのは、まさにこの人のことであった。」

なぜなら彼の充満の中から、我々は皆、

恵みに代わる恵みまでも受けたからである。

 

 律法はモーゼを介して与えられ、

恵みと真理はイエス・キリストを介して来たからである。

神をいまだかつて誰も見たことがない。

父の胸中にいる、ひとり子なる神、

この方こそが解き明かした。

 

 

 

❖補足文

(解説には書かれていないのですが、この序文の意味は、創造主であるヤハウェがこの地球を創造した時よりも、おそらくはずっと前のときに、神が熾天使としてイエスを創造されたころ、イエスが神とずっと一緒におられたのだという意味であり、そのイエス(ここでは、ことば)と共にヤハウェが地球を創造したということを物語っています。

その証拠に、創世記1:26で

「次いで神は言われた、

『わたしたちの像に、わたしたちと似た様に人を造り、彼等に海の魚と天の飛ぶ生き物と、家畜と全地と地の動くあらゆる動く生き物を服従させよう。』……。」

という場面があります。これは明らかに傍らにいたイエスに向かって話していたことなのです。ですから、この序文で言っているとおり、「すべてのことは彼を介して生じた。彼をさしおいては、何一つ生じなかった。彼をおいて生じたのは命であり、その命は人々の光であった。」と言っているのです。

「この彼の光が人々の命である」と言っていますね。

これは理解しているようで理解できていない人が実は非常に多いのですね。

クリスチャンなら理解できて当然なのだけれど、一般の人はよく分かっていないんです。つまり、文脈から分かる通り、この光は神に創造された、創造物の太陽などではないということに注目していただきたいと思います。

偶像崇拝のように太陽神=イエスのことでもありませんからね。

グノーシス主義、スピ系のように、すべてに神の霊が宿っているから、命があるから、神の光=命っていうトリックにひっかかってはいけません。

すべての人間はもともと神から生まれたのだから、死ねば神のもとに帰る。

こういう言葉は半分合っているようで、詐欺が入っています。神のもとに帰ることのできる人間の魂は限られていますし、神の霊だから、自分も神に…とはならないということですからね。輪廻もないです。

「彼を受け入れた人々、彼の名を信じる人々には、彼の子孫となる権能を与えた。」これのみが答えなのです。)

 

 

 

 

 ヨハネの証

 

 ヨハネの証は次の通りである。

 

 ユダヤ人達がエルサレムから祭司とレビ人を彼のもとに遣わして、

「お前は誰だ」と尋ねさせた時、彼は公言して否まず、

「私はキリストではない」と公言した。

 

 そこで、

「それではどういうことだ。お前はエリヤか。」

と尋ねたところ、彼は言う、

「私は違う。」

「お前はあの預言者か。」

すると、

「いや。」

と答えた。そこで彼に言った。

「お前は誰だ。我々を派遣した人達に答えを持って行かせてくれ。

お前は、お前自身について何と言うのか。」

彼は言った、

「私は預言者イザヤが言ったように、

『お前達、主の道をまっすぐにせよ』

と、荒野で呼ばわる者の声である。」

 

 彼等はファリサイ派の人々から遣わされていた。

彼に尋ねて、彼等は彼に言った。

「それでは、お前がキリストでもエリヤでもあの預言者でもないなら、

なぜ洗礼を授けているのか。」

ヨハネは次のように言って彼等に答えた。

「私は水で洗礼を授けているが、

あなた方の真ん中にあなた方のわからない方が立っておられる。

その人は私の後から来る方で、私はこの方の

片方の皮草履の紐を解く資格すらもない。」

 

これらのことはヨルダン河の向こう、ベタニアで起こった。

ヨハネはそこで洗礼を授けていたのである。

 

 

 その翌日、彼はイエスが自分の方へ来るのを目にして言う。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

『一人の人が私の後から来ようとしている。

その人は私よりも先にいたから、

私より優れたものとされている。』

と私が言ったのはこの方だ。

私にも彼がわからなかった。

しかし、彼がイスラエルに顕れるため、そのためにこそ、

私は水で洗礼を授けに来たのである。」

 

 また、ヨハネは次のように言って証した。

「私は霊が鳩のように天から降ったのを観たことがある。

それは、彼の上に留まった。

 

 私にも彼がわからなかった。

しかし、水で洗礼を授けるようにと私を派遣した方、

その方が私に言われた。

『霊が降ってきて、誰かの上に留まるのを、あなたが見るなら、

その人こそが、聖霊で洗礼を受ける者である。』

私はそれを見た。

それで『この人こそ神の子だ』と証してきたのである。」

 

 

 

 最初の弟子達

 

 その翌日、ヨハネはまたその弟子達のうちの2人と立っていた。

そして歩いてい行くイエスに目を注いで言う。

「見よ、神の小羊だ。」

2人の弟子は、彼がそう語るのを聞いて、イエスについて行った。

エスは振り返り、彼等がついて来るのを観て彼等に言う。

「何を求めているのか。」

彼等は彼に言った。

「ラビ(先生)、どこに留まっておられますか。」

彼等に言う、

「来なさい。そうすれば見るだろう。」

そこで彼等は行って、彼がどこに留まっているかを見、

その日は一日彼のもとに留まった。

時刻はおよそ第十刻(日没の約2時間前)であった。

ヨハネから聞いてイエスについて行った2人のうちの1人は、

シモン・ペトロの兄弟アンドレアスであった。

この人が最初に自分の兄弟シモンを見つけて、彼に言う。

「俺達はメシアを見つけたぞ。」

彼をイエスのところへ連れて来た。

 

 イエスは彼に目を注いで言った。

「あなたはヨハネの子シモンである。

あなたはケファ(ペトロ)と呼ばれるようになる。」

 

 (※ケファのギリシャ語訳ペトラ、即ち「岩」の男性形。)

 

 

 その翌日、イエスはガラリヤに出て行こうと思った。

そしてフィリッポスを見つける。

エスは彼に言う。

「わたしについて来なさい。」

フィリッポスはペトサイダの人、つまりアンドレアスとペトロの町の出であった。

フィリッポスはナタナエルを見つけて彼に言う。

モーセが律法に書き記し、また預言者達が書き記している人を、俺達は見つけたぞ。

ナザレの人、ヨセフの子、イエスだ。」

ナタナエルは彼に言った。

「ナザレの出で、何か善いものがありうるというのか。」

フィリッポスは彼に言う、

「来てみろ、そして見てくれ。」

 

 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見た。そして彼について言う。

「見なさい、本当にイスラエル人だ。あの人には裏がない。」

ナタナエルが彼に言う。

「どうして私のことを知っておられるのですか。」

エスが答えて彼に言った。

「フィリッポスがあなたを呼ぶ前に、

あなたがあのいちじくの木の下にいるのを私は見た。」

ナタナエルが彼に答えた。

「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 

 イエスは答えて彼に言った。

「あのいちじくの木の下であなたを見たとあなたに言ったから信じるのか。

これらのことよりももっと大いなることをあなたは見ることになる。」

そして彼に言う、

「アーメン、アーメン、あなた方に言う。

天が開いた状態になり、

人の子の上に神の御使い達がのぼったり降ったりしているのを

あなた方は見ることになる。」

 

 

 

Breakout 4.

       Breakouto 4.

【世の成功者になりたい人へ】

 

 

※前回怒りに任せて書いたので、編集し直しました。

 

 

 これはつまらない世間話ですが、

 

  最近、私に起きた出来事です。

それは、まったくこちらには何一つ過失がないのに、

相手に勝手に決めつけられ、侮辱を受けたという話です。

詳しいいきさつは話しませんが、簡単に書きます。

 

 それは、もともとお互いの個人を知っているわけでもなく、

ただ普通に私はある商品の見積もりを依頼しただけでした。

それに、この会社に限らず、既に何軒か別の会社に対しても同じように

商品の見積を依頼していました。

ただ、見積の条件としてこちらもあまり余裕がないため、

「こちらの提示する金額に合わないと思うなら断って下さい。」

とどの会社に対してもあらかじめ念を押して依頼していました。

その上で出来るという返事をもらった会社のみをこちらは見積依頼をしていて、

どの会社に対しても無理やり見積依頼をしてはいなかったのです。

 

 ところが、この失礼極まりない会社の営業マンは、

「受付けた相手が自分なら、即断っていた。

しかし、これを受けたのが上司だったから仕方なく見積もってやった。」

とはっきりと述べ、

「忙しいさなか、いかにこの厳しい金額を出すのに苦労したか。」

と、くどくどと恩着せがましい言い回しで説明をし、

依頼したこちら側に問題があったかのような言い方をしてきたのです。

確かにこの会社の商品は、他社と比べると品質が良く、

評判も良かったので、金額的に無理をさせたのかもしれませんが、

だったら最初の問い合わせの時点で断ればいいし、

この日の見積結果を聞く間の日数も一月近くあり、途中で断ることも十分できたはずだったのです。

それで、私はこの時再度

「無理をしなくてもいいから、やりたくない取引なら断ってほしい。」

と伝えました。しかし、相手は

「ここまで無理をして見積もってあげたのだから、むしろ喜ぶべきじゃないのか?

普通はありがたく思わないのか?こちらにケンカを売っているのか?」

とまで言ってきたのです。

 

はあ?!

むしろありがたく喜べ?

ケンカ?

すべてがありえないセリフでした。

ケンカを売っているのは一体どちらだというんでしょうか?!

 

 

  これは家に帰ってからの推察ですが、

 恐らく、この営業マンは、自分はこの依頼を受けたくない。

しかし上司の手前、この仕事は自分の方からは断りにくい、というか断れない。

だから、なんだかんだとこの場の雰囲気を悪くし、お客の方からこの取引を断らせようとたくらんでいたのだと思います。

そして、その雰囲気を壊した原因、つまりケンカを売ったのはお客側にあるのだということを上司に報告するため、わざと私を怒らせるような言動を繰り返したのではないでしょうか。

 

 にしても、、、ですよ、

たった1度の商品の見積をして、その結果を聞きに行っただけなのに、

どうしてここまで馬鹿にされなければならないんでしょうか?

まったく、今でも怒り心頭です。

もちろん、この会社との取引は後ですみやかにお断りをしました。

そして、後日ちゃんとした別の会社に気持ちよく商品の注文をし、

スムースに何のトラブルもなく取引は成立しました。

それに、他の見積依頼を断った会社であっても、

最初から最後まで普通に、丁寧に感じよい対応をしてくれました。

これって当たり前ですよね。

 

 

 この失礼極まりない会社は、YouTube動画でも宣伝している、知っている人は知っているだろう有名な某建築メーカーの会社です。ある〇〇の大会で連続1位を取っています。全国区ではまだまだの認知度ですが、口コミサイトでも出てきます。

最近特に売れ行きが好調のようで、実際営業マンはかなり忙しいようです。

そして、このありえない対応をした営業マンは、その会社のYouTubeのPR動画で一番多く出演しており、会社の顔と言ってもいい人物です。おそらく会社の中では”出来る人”なんでしょう。

それに、その動画の画面上の彼を視聴するかぎりは、すごくイメージがいいんです。

明るくて面白く、商品の説明も丁寧で分かりやすいですし、非常にソフトで、「人たらし」というか、そういう言葉がピッタリな魅力がある人に映っています。

だから、自分もこの会社に見積りを依頼するまで、けっこうこの会社のPR動画を視聴していたのて、彼に対して好印象をもっていたんです。

ところが実際会ってみたら、まったくの別人、真逆の人間だったので、

家に帰ってから、本当にこの動画の人物とさっきもらった名刺の人物の名前が同一なのか確かめたのです。

結果、間違いなかったんですけどね。

 

 以上が、私に最近起きた出来事でした。

 

 

 

 こういう体験して、ちょっと前に別のYouTube動画の番組で、世間にはあまり知られていない『本当は悪どい裏の顔をもつ芸能人の噂話』の特集を思い出しました。

まさかあのお茶の間で大人気のPロレスの夫婦が、裏では過去に暴力事件を起こしていた夫婦で、それ以外においても評判が悪く、実はその業界では知らない人はいない嫌われ者で通っているとか、

これもまた、あのバラエティー番組にしょっちゅう出てくる某国出身の元パリコレモデルのおばさんタレントが、裏では詐欺めいた二束三文の商品を、高値で通販で売って大儲けし、消費者センターには苦情が殺到しているという話らしいです。

なのに、一体何の忖度をしているのか、この人達についてマスコミは一切この事実を報道しないというんですね。

 

 そういえば、過去においても、TVのバラエティーに大人気でよく出ていた、これも同じくPロレス夫婦でタレント活動をしており、その夫で病院関係の仕事をしており、世間では恐妻の妻の尻に敷かれていると思われていたはずなのに、実は本性は反対で家では妻を虐げており、部下のパワハラ問題が明るみになったことでTVから消えたという事件がありました。覚えている人は少ないかもしれないけど。

 

 どれも、世間的なイメージとはかなりかけ離れた本性が明るみになったわけですが、

彼等は外見的にはニコニコした恵比寿顔の善人顔に見え、いい人っぷりが表に現れているかのような風貌な人だったりします。なので、余計驚くんですよね。

そして、こういった人達に共通するのは、見た目とかの印象もそうだけど、

みんな”口が達者で上手い”ってことです。

人を惹きつける話し方を心得ているんです。

そして、もう一つ共通している特徴は、

表向きは”お金よりも人情”とうたいながら、その実は”お金に対する欲が深い”ってことです。

彼等は世間に悪事がバレなければ、どこまでも平気で嘘をつき続け、

人を騙しても傷つけても、自分さえ幸福ならばそれでいいのです。

 

 

 この世は悪魔支配なので

上記のような裏表のある人物をわざと「成功者の見本」としてもて流行らせています。

悪事がバレたらまた別の同じような人物を世に送りだせばいいというかんじで。

世の有名人の中で、(数は少ないでしょうが、まったくいないというわけではないですが)本当の善人で裏表ない人物を「成功者の見本」とするのは嫌なんでしょうね。

だから、ほとんどは悪魔側の人間をこの世で目立たせ輝かせています。

 

 

 イエスは、

「この世は悪魔のものなので、この世で成功など望んではいけない、

この世を愛し、この世の友になれば、神の敵になる。」

と言っておられます。

 

 

 だから私達は

ユーチューバーになって人気を得て、お金儲けをしなくてもいいし、

何かしらの成功者にならなくてもいいし、

世で流行るあらゆる流行も、

くだらないルッキズムも全く気にする必要もないし、

口が上手い人間にならなくても全然いいのです。

むしろ口下手でいることは、神からのプレゼントだと思います。

この世で上手く生きようしてこの世に倣い、この世の友になるより、

平凡上等で生きる方がずっと幸せな生き方だということですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エゼキエル書 31.

エゼキエル書

 

 

 

 第 48 章

 

 

 

 これらがイスラエルの部族の名ごとの嗣業地である。

北の果ては、へトロン街道に沿って、レボ・ハマト、

ダマスコとの北方の境界ハツァル・エナン、ハマトの境界に沿った地域。

東端から海に至る地域がこれに属する。

これば部族ダンに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ダンとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族ァシェルに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ァシェルとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族ナフタリに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ナフタリとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族マナセに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 マナセとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族エフライムに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 エフライムとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族ルベンに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ルベンとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族ユダに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ユダとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これはあなた方が献納しなければならない献納地である。

横は2万5千アンマ、縦は東端から西端までの嗣業地の一つと同じで、

聖所がその中央である。

 

 あなた方がヤハウェに献納する献納地は、

縦2万5千アンマ、横2万アンマである。

祭司達のために聖域となる献納地がこれに属し、

北側は2万5千アンマ、西側は横1万アンマ、

東側は横1万アンマ、南側は縦2万5千アンマであり、

その中央にヤハウェの聖所がある。

この聖別された区域はツァドクの子等の出である祭司達に属する。

彼等はわたしへの務めを守り、イスラエルの子等が迷ったとも、

レビ人が迷ったように迷うことはなかった。

 

 彼等の献納地はこの地の献納地の中でも最も聖なる区域であり、

レビ人の領地に属する。

レビ人の領地は祭司の領地に沿って、縦2万5千アンマ、横1万アンマである。

これら全体は縦2万5千アンマ、横2万アンマである。

人々はこの一部を売却も、交換もしてはならない。

つまり、この地のうちで随一の部分は移譲してはならない。

それはヤハウェの聖域だからである。

 

 残りの部分は、幅にして5千アンマ、聖域の2万5千アンマに面する。

これは町の居住地や草地となる世俗の領域である。

町はその中央にある。

 

 これが町の広さである。

北の端も4千5百アンマ、南の端も4千5百アンマ、

東の端も4千5百アンマ、西の端も4千5百アンマ。

町の草地は北に2百5十アンマ、南に2百5十アンマ、

東に2百5十アンマ、西に2百5十アンマである。

残りの部分は、聖域となる献納地に沿って、

東に1万アンマ、西に1万アンマである。

それは聖域となる献納地に沿っている。

 

 その産物は、町で仕える者達の糧となる。

町で仕える者達はイスラエル全部族から選ばれてここで仕える。

 

 献納地全体は2万5千アンマ四方である。

あなた達は町の所有地に加え、聖域となる献納地を献納しなければならない。

残りの部分は、つまり聖域となる献納地と町の所有地の両側は指導者に属する。

東側は献納地と2万5千アンマで接して、一つの献納地、

この地の東の境界まで広がり、西側は献納地と2万5千アンマ接して、

この地の東の境界まで広がる。

 

 指導者の地域の縦は12部族の割り当てに準ずる。 

聖域となる献納地と神殿の聖所がその中央にある。

また、レビ人の所有地と町の所有地も指導者に属する区域の中央にあり、

ユダの領地とベニヤミンの領地との間が指導者のそれである。

 

 残った部族に関して。

東端から西端までの地域、これが部族ベニヤミンに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ベニヤミンとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族シメオンに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 シメオンの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族イッサカルに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 イッサカルとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族ゼブルンに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ゼブルンとの境界に沿って、東端から西端までの地域、

これが部族ガドに割り当てられる一つの嗣業地。

 

 ガドとの境界に沿って、境界は南端に向かって南方に伸びる。

境界はタマルからメリバト・ガデシュの水、大海に向かう川である。

これが、あなた方イスラエルの部族に嗣業として割り当てる地であり、

これらがその割り当て分である。

 

 

 

 

 十二の門

 

 これらが町の出口である。

長さ4千5百アンマの北側には、町の門はイスラエルの部族の名にちなむ。

北の3つの門があり、

一つがルベン門、一つがユダ門、※①もう一つがレビ門。

 

 長さ4千5百アンマの東側にも3つの門があり、

一つはヨセフ門、一つはベニヤミン門、もう一つがダン門。

 

 南側も長さ4千5百アンマで、3つの門があり、

一つはシメオン門、一つはイッサカル門、もう一つはゼブルン門。

 

 西側も長さ4千5百アンマで、その門は3つある。

一つはガド門、一つはアシュル門、もう一つはナフタリ門。

その周囲は1万8千アンマ。

この日から、※②町の名は『ヤハウェがそこに』となる。

 

 

 

 

 ❖補足文

※①もう一つがレビ門… 嗣業地の割り当てからレビ族は除外され、ヨセフの一部族マナセとエフライムがこれに加わる。 12の門の場合はレビが名を連ね、ヨセフの2部族はヨセフにまとめられる。

※(2)町の名は『ヤハウェがそこに』… 神ヤハウェエルサレムを住まいとする、という思想はソロモンによるエルサレム神殿建立以降<王列記・上6-8章>一般化し、詩編などでも詠われる。 <詩編46・48・76篇他>。 エゼキエル書はケバル河畔でのヤハウェの幻に始まり、再建された神殿と回復されたイスラエル国土とエルサレムの幻で終わるが、そこにはエルサレムを見棄てたヤハウェが再びエルサレムに戻ることが暗示される。 )

 

 

 

                            『エゼキエル書』 完

 

 

 

 

 以上でしたが、エゼキエルという人物についてより深めるために、

書籍解説より一部抜粋させてもらいますね。

 

 

 

 人物像とその預言活動

 

 少ない個人史情報

 

 エゼキエルはブジという名の祭司の子であった。

父親について、それ以上は判らないが、エゼキエルがエルサレム神殿で仕える祭司の家系の出であったことは間違いないであろう。

彼が視たという詳細な神殿の幻の記事を読むと、エゼキエル自身も祭司としてエルサレム神殿で仕えていたのかもしれない、と思えてくる。

 

 彼の預言には、祭儀、律法とくに安息日、聖・俗の区別、神殿などへの深い関心が随所に窺われるし、いわゆる祭司文書や神殿法典との親近性も指摘されてきた。

これらは彼の出自と無関係ではないに違いない。

古代イスラエルにおいて、祭司は結婚してこそ一人前であった。

エゼキエルもすでに結婚しており、第一回バビロニア捕囚民に混じって、彼は妻と連れ立ってバビロニアに移住したのである。

その妻は捕囚の地で他界する。 そして妻との死別という悲痛な体験を、彼は祖国に迫る悲劇到来を象徴する出来事として受け止めたのである。

この妻の 死以外に、エゼキエルは自らの家庭生活に触れる言葉を残していない。 それでも、妻を「目の慕わしさ」、子供を「魂の憧れ」と表現する言葉遣いの中に、彼の家庭観を垣間見ることができるであろう。

 

 

 

 エレミヤとの関係

 

 エゼキエルとはほぼ同時代に預言者エレミヤとの関係は、それ自体がひとつの研究主題となってきた。 捕囚前、エゼキエルはエルサレム預言者エレミヤの活動を知っていたはずであり、捕囚の地では、捕囚の民に宛てたエレミヤの書簡<エレミヤ29:4以下>についても聞いていたに違いない。

実際、多くの点でこの2人の預言書は基本的に同一の立場に立っていた。

 

 例えば、親バビロニア・反エジプト的な姿勢、王ゼデキヤへの批判的態度、楽観的預言者への批判、ユダ残留民でなくバビロニア捕囚民に託す救済の希望、内面への視座、などがそうである。 

両者に共通する預言モチーフとしては、神の言葉を「食べる」こと、「見張り」、「淫行の姉妹」、「牧者」、などを挙げることができる。

 

 さらに、「平和がないのに、平和だと言う」といった預言者批判は表現自体がエレミヤのそれと重なるし、「父が酸い葡萄を食べれば、子の歯がうく」という諺を引用して、その背景の観念を否定する仕方においても両者は一致する。

エレミヤ書との間のこのような共通性をみると、エゼキエルが預言者として召命を受けたこと自体の内に、言い換えれば、エゼキエルの捕囚の地で預言者的使命を自覚したこと自体に、祖国に留まった先輩預言者エレミヤの深い影響があった、と想定されるのである。

 

 エゼキエルにとって、預言者としての召命をうけるということは、自分が単に神の意思を伝える器とされただけでなく、自分の足で立つこと、そして、「イスラエルの家の見張り」となることを意味していた。

 

 

 

 

 

 

エゼキエル書 30.

エゼキエル書

 

 

 

 第45・46章 

 献納地

奥の中庭の門、種々の供犠・供物

 (省略)

 

 

 第47章

 

 

 

 神殿から流れ出る水

 

 彼は私を神殿の出入口に連れ戻した。

すると、見よ、水が神殿の敷居の下から東へと流れ出ていた。

神殿の正面は東向きだったからである。

その水は祭壇の南側から、神殿の南の脇壁の下を流れ下っていた。

彼は私を北門から外側に連れ出し、東向きの外門に回らせた。

すると、見よ、水が右の脇壁からばしゃばしゃと流れ出ていた。

 

 その人は、測り縄を手にして流れに沿って東に出て行き、1000アンマを測り、

そこで私に水の中を、踝(くるぶし)まである水を渡らせた。

彼はさらに1000アンマを測り、そこで私に水の中を、膝まである水を渡らせた。

彼はさらに1000アンマを測り、そこで私に水の中を、腰まである水を渡らせた。

彼はさらに1000アンマ測ったが、それは、もはや私には渡れない川であった。

水が増して、泳がなければならないほどの水、

歩いては渡れない川になっていたからである。

彼は私に言った。

 

 「人の子よ、あなたは見たか。」

 

 そして私を連れ行き、川の岸辺に連れ戻した。

私が戻ると、見よ、その川の岸辺には、両側に、一本の非常に大きな木があった。

彼は私に言った。

 

 「これらの水は東の地域に流れ出て、※①アラバを下り、

海に、その苦い水を注ぎ入る。そして、その水は癒される。

さらにまた、この川が流れ行くところはどこでも、

群がる生命のあるものはすべて生き、魚は増えるであろう。

なぜなら、これらの水は流れて行き、そこの水が癒されるので、

その川が流れ行くところでは、すべてが生きるからである。

漁師達はその畔に立ち、

※②エン・ゲディからン・エグライムまでが引き網の干場となるであろう。

その魚は種類に従って、大海の魚のようにおびただしく増えるであろう。

だが、その沼地と沢地とは癒されず、塩の採取に供される。

その川の畔には、両側の岸辺に、あらゆる果樹が生い茂る。

その葉はしぼむことなく、その実は尽きることなく、月ごとに新たな実をつける。

なぜなら、そのための水、それが聖所から出続けるからである。

その実は食用に、その葉は薬用になる。」

 

 

 

 

 嗣業地および献納地

 

 主ヤハウェはこう言った。

 

 「これは、あなたがたがこの地を

イスラエルの12部族に嗣業として継がせる際の領域である。

ヨセフ族は2倍の割り当て。

あなた方はこれを嗣業としてそれぞれ等しく継がせなければならない。

それは、あなた方の父祖達に与えると、わたしが手を挙げて誓ったものである。

まさにこの地はあなた方の嗣業地となろう。

 

 これは、この地の境界である。

北端では、大海から※③へトロン街道、レボ・ハマト、ツェダド、ベロト

ダマスコの領地とハマトの領地の間にある

※④ジブライム、ハウランの領地に接するハツェル・ティコンに至る。

境界は海からハツァル・エノン、ダマスコとの北方の境界、

さらに北方、ハマトとの境界に至る。

これが北端の境界である。

 

 東端はハウランとダマスコの間のハツァル・エノンから、

ギルアドとイスラエルの地の間、すなわちヨルダン河、

さらにその東の海に境界を伸ばし、タマルに至る。

これが東端の境界である。

 

 南端は南方、タマルから※⑤メリバト・カデシュの水まで、

※⑥大海に向かう川までである。

これが真南の南端である。

 

 西端は大海であり、レボ・ハマトの差し向かいまで境界を伸ばす。

これが西端である。

 

 あなた方は、この地をイスラエルの全部族に割り当てなければならない。

その際、自分達ばかりでなく、あなた方の只中で子供をもうけ、

あなた達の只中に寄留する寄留者達にも、

この地を嗣業として割り当てなければならない。

あなた方にとって、寄留者達はイスラエルの子等の中の※⑦正規の成員と同じである。

彼等もイスラエルの部族の只中であなた方と共に

この地を嗣業として割り当てなければならない。

あなた方は、寄留者が寄留する部族において、

寄留者にその嗣業を与えなければならない。

 

 

 

 ❖補足文

※①アラバ…「荒地」の意。ガラリヤ湖から死海を経てアカバ湾にまで通じるヨルダン渓谷の荒凉地の総称。エルサレムの東のキドロンの谷と西のヒンノムの谷は南で合流して、最終的には死海に流れ下る。死海はまたアラバの海とも呼ばれた。<申命記3:17>他。

※②エン・ゲティからエン・エグライムまで…エン・ゲティは「小山羊の泉」の意。

死海西岸の荒野のオアシスの地。エン・エグライムは、「小牛たちの泉」の意。死海東岸の地と思われるが、位置は確証されない。

※③へトロン街道、レボ・ハマト、ツェダド、ベロト…ハ・デレクを若干の異本と共にデレクと読み替える。但し、へトロンの正確な位置は不明。

原語レボに次節冒頭のハマトを結合させて読む。オロンテス川上流域の町、(ハマト入口)で、ダビデの支配はこの地域まで及んだという。<サムエル記下8:8-12>

他には<民数記34:8>のみ。ダマスコ北方約100キロのツァダドか。異論有。

<サムエル記下8:8>ではベロタイ。ダマスコとハマトの間のツォバ王国の町。

※④ジブライム、ハウランの領地に接するハッェル・ティコン…次節のハツァル・エノン、48:1のハツァル・エナンと同一か。

※⑤メリバト・ガデシュの水…原文メリボート・ガデシュ。<民数記14><申命記32:51>。メリバト(メリバの連語形)・ガデシュは<出エジプト17:7>などにその逸話が伝えられる南方の荒野のオアシス。

※⑥大海に向かう川までシナイ半島北部を流れて地中海まで注ぐいわゆる「エジプトの川ワディ・エル・アリーシュのこと」。ソロモン時代の南の国境。<王列記上8:65>

※⑦正規の成員…原語はエズラハ。イスラエル共同体の正規の構成員として権利と義務を負う存在。)

 

 

 

エゼキエル書 29.

エゼキエル書

 

 

 

 

 第44章

 

 

 

 門の掟

 

彼は東に向いた聖所の外の門のとこに私を連れ戻した。

それは閉じられていた。

ヤハウェは私に言った。

 

 「この門は閉じられたままにし、開かれることがあってはならない。

誰もそこに入ってはならない。

なぜなら、イスラエルの神ヤハウェがそこに入ったからである。

それは閉じられたままにしておかなければならない。

但し、指導者、彼だけは指導者としてヤハウェの前でパンを食べるために、

そこに座ることができる。

彼はその門の通廊を通って入り、その通路から出ることができる。」

 

 彼は、北門を通って神殿の前に私を連れて来た。

私が見ると、なんと、ヤハウェの栄光がヤハウェの神殿に満ちていた。

私はひれ伏した。

ヤハウェは私に言った。

 

 「人の子よ、ヤハウェの神殿のすべての掟について、

またそのすべての律法について、

わたしがあなたに語ることすべてをあなたの心に留め、目で見、耳で聞け。

あなたは神殿の入口と聖所の出口に心を留めなければならない。」

 

 

 

 

 レビ人とレビ人祭司

 

 「あなたは、反逆の家、イスラエルの家に言わなければならない、

ヤハウェがこう言ったと。

 

 『イスラエルの家よ、お前達のすべて忌まわしい行為はもう充分である。

お前達は異国の子等、心に無割礼の者達、肉に無割礼の者達を連れて来て、

わたしが聖所に入らせ、脂肪と血によるわが食物を供えることによって、

それを、わが神殿を冒涜した。

こうして、お前達はそのあらゆる忌まわしい行為によって、

わが契約を破った。

 

 お前達はわが聖所のつとめを守らず、

自分達のために、彼等をわが聖所でわがつとめを守る者とした。』」

 

 また、主ヤハウェはこう言った。

 

 「すべて異国の子等、心に無割礼の者、肉に無割礼の者は、

わが聖所に入ってはならない。イスラエルの子等の只中にいるすべて異国の子等も。

 

 レビ人は、イスラエルの民がその偶像の後を追って

わたしのもとから迷い出たイスラエルの迷いの時、

実に、わたしのもとから遠ざかったがゆえに、

※①彼等は自分達の咎を負わなければならない。

彼等はわが聖所で使える者となるが、

神殿の門衛のつとめをもって神殿に仕えるのである。

彼等は民のために全焼の供犠、また供犠一般を屠り、

民の前に立って、彼等に仕えるのである。

彼等は民の偶像の前で彼等に仕え、

イスラエルの家にとって咎の躓きになったがゆえに、

それゆえ、わたしは彼等に対し手を挙げて誓った。

 

 彼等は自分達の咎を負わなければならない。

彼等がわが祭司としてわたしに近づくことは出来ない。

わが聖なるものすべてに、また聖にして聖なるものに近づくことも出来ない。

彼等は自ら行ったその恥辱と忌まわしい行為の責任を負わなければならない。

わたしは彼等を、神殿のあらゆる雑役とそこで行われるあらゆる仕事をもって

神殿のつとめを守る者とする。

 

 ツァドクの子等であるレビ人祭司は、

しかし、イスラエルの子等がわたしのもとから迷い出た時も、

わが聖所のつとめを守ったがゆえに、

彼等は、わたしに仕えるためにわたしに近づき、

わたしに脂肪と血を供えるためにわが前に立つことが出来る。

彼等はわが聖所に入り、わたしに仕えるため、

わが卓台に近づいて、わがつとめを守るのである。

 

 祭司達が奥の中庭の門に入るときは、

亜麻布を衣服にまとわなければならない。

彼等が奥の中庭の門と神殿で使える時に、彼等は羊毛を身に着けてはならない。

彼等の頭には亜麻布の頭巾が、腰には亜麻布の腰覆いがなければならない。

汗の出る衣服をもって身にまとってはならない。

彼等が民のもと、※②外の中庭に出る時には、

彼等が神殿に仕える時に身に着ける衣服を脱ぎ、

それらを聖なる部屋に置き、別の衣服をまとわなければならない。

彼等の衣服によって、聖なるものを民に触れさせてはならない。

 

 祭司達は自分の頭髪を剃ってはならない。

乱れ髪を垂らしてもならない。

彼等は頭髪をきちんと整えておかなければならない。

祭司は誰でも、奥の中庭に入る時、葡萄酒を飲んではならない。

彼等はイスラエルの家出身の乙女以外には、

寡婦も離縁された女性も妻として娶ってはならない。

ただ、祭司の死によって寡婦となった寡婦は娶ることができる。

 

 祭司達はわが民に聖と俗の間の区別を教え、

汚穢(おわい)と清浄の間の区別を彼等に知らせなければならない。

※③係争(けいそう)に関して、彼等は裁くために立ち上がり、

わが公正をもってこれを裁かなければならない。

わが祝祭の時はすべて、わが律法とわが掟を守り、

わが安息日を聖別しなければならない。

 

 ★祭司は死人のいるところに入って穢れてはならない。

但し、父と母、息子と娘、兄弟、結婚していな姉妹の弔いのためには、

自ら穢してもよい。しかし、彼の浄めの後、

彼のために※④7日間を数えなければならない。

再び聖所で使えるため、聖所に、奥の中庭に入る日、

彼は自分のために浄罪の供犠を供えなければならない。

 

 これが彼等の嗣業となる。すなわち、わたし自身が彼等の嗣業である。

あなたがたは、イスラエルにおいて、彼等に所有地を与えてはならない。

わたしこそが彼等の所有地なのだから。

 

 ★穀物の供物、浄罪の供犠、償いの供犠は供えられた後、

彼等がこれを食べることが出来る。

イスラエルにおける奉納物はすべて彼等のものである。

あらゆる初物のうちで最上のものはすべて、

また、あなた方のあらゆる献納物のうち、

あらゆる種類の献納物はすべて、祭司達のものである。

 

あなた方が初めて挽いた麦粉の供物は祭司達に与えなければならない。

あなた方の家に祝福がもたらされるためである。

鳥であれ、獣であれ、屍や噛み裂かれたものを祭司達は食べてはならない。」

 

 

 

 

 

❖補足文

※①彼等は自分達の咎を負わなければならない。…以下レビ人が下級祭司とされた理由づけ。レビの子孫であったコラの反逆<民数記16:1>以下等が念頭に置かれているらしい。

※②外の中庭に出る時には…一般民衆が入ることが許されるのは外の中庭までであった。

※③係争に関して…70人訳、「血をめぐる係争。」

※④7日間を数えなければならない。…広く古代西アジアでは、浄めの期間は7日間である。

 

 ★の部分ですが、これを偶像崇拝の祭司達である、たとえば仏教でいえば坊主達は、

 聖書とは反対に、通夜、葬式共に死人に近づきお経(いわば呪文)を唱え、墓にも近づき同じようなことをしますね。

これは、坊主達は穢れた神である偶像神に仕えているからであり、死人崇拝もしているからですね。

そして、ヤハウェの祭司達は、神に供えられた供犠や奉納物を、後に食すことが許されていますが、他の人間はそれを許されていないことが書かれてありました。

神の選ばれた者とそうでない者達を聖別しているためですね。

ところが、偶像崇拝をしている宗教の教えは、坊主だろうと、死者の家族であろうと、供えられた物を後に食すことを良しとしています。

死んだ霊が食べたものだから、と嫌な人には捨てることも許していますが、

どちらかと言えば、ありがたがって食べるように勧めることが多いように思います。

「初七日」についても、聖書からパクッて偶像崇拝的な意味合いを後付けしたように思いますね。

「初七日」の意味を調べてみると、故人が三途の川のほとりに到着する日とされているようです。そして、故人が激流か急流か緩流かのいずれかを渡るかが、神の裁きで決まる大切な日で、緩流を渡れるように法要するための日なんだそうです。

神の裁きで激流を渡る人ってどんな人?法要すれば緩流を渡れるなんておかしいですよね。