13.
象徴行為としての洗足
過越の祭りの前に、イエスはこの世から父のもとに移るべき、自分の時の来たことがわかり、※①世にいる自分に属する人々を愛するにあたって、この人々を極みまで愛した。
さて、食事がなされていた間に、悪魔は既にイスカリオテのシモンの子ユダの心に彼を引き渡そうという考えを吹き込んでいたのだったが、父がすべてを自分の手に委ねたこと、また自分が神から出て来て、その神のもとへ往こうとしていることがわかって、食事の席から立ち上がり、上着を脱ぐ。
そして、手ぬぐいを取って腰に巻き付けた。それから、たらいに水を入れる。
そして、弟子達の足を洗っては巻き付けた手ぬぐいで拭き始めた。
❖補足文
(※①世にいる自分に属する人々~この人々を極みまで愛した。…15:13の意味で訳したが、「最後まで」、つまり死に至るまでととることも可。イエスが受難と死を意識的に承諾して自らの身に引き受けたことを言おうとする著者は、彼の死を積極的な愛の行為として意味づけている。)
象徴行為の説明
こうして、シモン・ペトロの所に来ると、ぺトロは彼に言う。
「主よ、あなたが私の足を洗われるというのですか。」
イエスは答えて、彼に言った。
「わたしのしようとしていることが、あなたには今は分からない。
だが、それらのことの起こった※②後で知るようになるだろう。」
ペトロが彼に言う。
「私の足を洗うなどということは決してなさらないで下さい。」
イエスが彼に答えた。
「わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関りを持たないことになる。」
シモン・ペトロが彼に言う。
「主よ、私の足だけでなく、手も頭も。」
イエスが彼に言う。
「沐浴した人は、足の他には洗う必要がなく、全身清い。あなた方も清い。
しかし、全員ではない。」
つまり彼には自分を引き渡そうとしている者が分かっていたのである。
このゆえに、「あなた方全員が清いわけではない。」と言ったのであった。
(※②後で知るようになるだろう。…2:22,12:16から見るとイエスの死と復活の後で。
✤ペトロが主に対して、自分の足を洗わせるなどということは無礼なことだと謙遜してイエスの行為を断ったのに、イエスが「わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関りを持たないことになる。」と言われた途端に、びっくりして即座に「主よ、私の足だけではなく、手も頭も。」と更に要求した様子はちょっと微笑ましい場面ですよね。)
イエスの戒め
さて、彼等の足を洗い、また自分の上着をつけ、そして再び食卓についた時、彼等に言った。
「わたしがあなた方に何をしたかあなた方は知っている。
あなた方は、わたしを師とか主とか呼んでいる。
そう言うのは正しい。わたしはそうなのだから。
それでは、主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのであれば、
あなた方も互いの足を洗い合わなければならない。
つまり、わたしが自分達に行った通り、あなた方自身も行うようにせよと、
あなた方に模範を示したのである。
アーメン、アーメン、あなた方に言う。
僕はその主人より大いなる者ではなく、
遣わされた者は自分を派遣した者より大いなる者ではない。
このことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなた方は幸いである。
わたしは、あなた方皆について言おうとしているのではない。
自分が誰を選んだかが、わたしには分かっている。
だが、
※③わたしのパンを食する者がわたしに向かってその踵(かかと)を上げた
という聖書が満たされなければならない。
ことが起こる前に、今からあなた方に言っておく。
ことが起こった時に、わたしがそれであることをあなた方が信じるようになるために。
アーメン、アーメン、あなた方に言う。
誰であれ、わたしが派遣する者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、
わたしを受け入れる人は、わたしを派遣した方を受け入れるのである。」
❖補足文
(※③わたしのパンを食す者がわたしに向かってその踵を上げた…<詩編41:10>の自由な引用。「踵を…」は、「踏みつける」とでもいった意味か。新共同訳は「逆らった」と訳している。
<詩編41:8-11>
私を憎む者はみなともに私に敵対して囁き合い、
私に対して我が災いを諮るのです。
「※魔の言葉が彼に注ぎこまれているのだ。」
(※音訳はベリーヤアル。人に滅びをもたらす悪魔的存在で「破滅」などとも訳される)
また「臥した(ふした)者は二度と立ち上がれないのだ。」と。
私が拠り頼んだわが平安の人でさえ、
わがパンを食べながら、私に対して※踵を大きくしました。
(※踵を大きくするは、敵対の象徴か。)
あなたが、ヤハウェ、私を憐れんで下さい。
彼等に私が報復できるように。 )
裏切る者の退去
これらのことを話してから、イエスは霊がかき乱され、証して言った。
「アーメン、アーメン、あなた方に言う。
あなた方のうちの一人が、私を引き渡そうとしている。」
弟子達は、一体誰のことを言っているのかと当惑して、互いに顔を見合わすばかりであった。彼の弟子達のうちの一人が、イエスの傍で席に着いていた。
それは、イエスが愛していた弟子であった。
すると、シモン・ペトロが、イエスの言っているのが一体誰であるか問いただすようにと、この人に合図した。
その人は、そのようにイエスの懐近くで食卓につき、彼に言う。
「主よ、それは誰ですか。」
イエスが答える。
「わたしがパン切れを浸して、与えることになる人がそれだ。」
さて、パン切れを浸した後取って、イスカリオテのシモンの子ユダに与える。
パン切れを受け取って後、その時、サタンがこの人の中に入った。
そこで、イエスは彼に言う。
「しようとしていることを、早くしてしまえ。」
だが、これを彼が何のために言ったのか、席に着いていた人々のうち誰も知らなかった。つまりユダが金庫番であったので、ある人達は、イエスが祭りのため、自分達に入用なものを買って来いとか、貧しい人達に何かあげて来いとか彼に言っているものとばかり思い込んでいたのである。
さて、この人はパン切れを受け取ると、ただちに出て行った。夜であった。
告別説教の導入部
さて、彼が出て行くと、イエスは言う。
「今、人の子が栄光を受け、彼(イエスのこと)において神が栄光を受けた。
彼において神が栄光を受けたのなら、神も自らにおいて人の子に栄光を与えることとなる。それもただちに彼に栄光を与えることとなる。」
退去の予告と相互愛の命令
「子等よ、まだしばらくの間、わたしはあなた方と共にいる。
あなた方は私を求めることとなる。
わたしはユダヤ人達に
『わたしの往こうとしているところに、あなた方は来ることが出来ない。』
と言った。同じように、今あなた方にも言う。
新しい命令をあなた方に与える。
あなた方も互いに愛し合うようにと、わたしがあなた方を愛した。
同じように、あなた方は互いに愛し合いなさい。
あなた方が互いに対して愛を持つなら、
それによって、あなた方がわたしの弟子であることを、
すべての人が知るようになるであろう。」
ペトロの否みの予告
シモン・ペトロが彼に言う。
「主よ、何処へ往かれるのですか。」
イエスが彼に答えた。
「わたしの往こうしているところに、
あなたはわたしに今はついて来ることが出来ないが、後でついて来ることになる。」
ペトロが彼に言う。
「主よ、なぜ今あなたについて行くことが出来ないのですか。
あなたのためには自分は命も棄てるつもりです。」
イエスが答える。
「わたしのために自分の命を棄ててくれるというのか。
アーメン、アーメン、あなたに言う。
あなたが三度わたしのことを否むまでは、鶏は決して鳴かないであろう。」
◆◆ぺトロについて
ペトロはイエスの一番弟子であり、12使途の中でもトップリーダーだった人です。
そして、イエスに最も愛された弟子でもありました。
新約聖書の中で
<ペトロ第一の手紙><ペトロ第二の手紙>がペトロの文書となっています。
弟子達の残した文書は、イエスから受けた教えを信者達(もしくは非信者達)に、より理解しやすく、より深い形で伝えようとしているので、また近々紹介しようと思っております。
あとペトロについて、本文以下解説より。
漁民で、共観福音書によればカファルナウムに家を持っていた。本名はシメオン<使途15:14>、ないしそのギリシャ語版。シモン<マコ1:16平行>、イエスから「ケファ」Kephaアラム語で「岩」というあだ名を与えられ、それがギリシャ語化したのが「ペトロ」(ギリシャ語の「岩」を示す女性名詞「ペトラ」を男性化した形)。
イエスの直弟子中、筆頭格、エルサレム原始教会を最初期において指導した。しかし「主の兄弟」ヤコブが実験を握ってからは、足跡が明確ではない。妻を連れて放浪伝道を行った形跡がある。<第1コリント9:5>